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中卒だった頃の自分、今の自分⑦

7. 大学院時代

こんにちは、ハナチェンコです。⑦です。

「ここでやっていけるのだろうか」

1995年春、28歳、本命の大学院に合格して数日経った頃、電話がかかってきました。一緒に試験を受けた、内部進学で一緒に入学するらしき人からでした。

なんでうちの電話番号知ってるんだろう

と思いつつ挨拶していると、

じゃあ、あだ名は「はなちゃん」でいいですか?

と聞かれました。ここ大学院だよな...。あだ名の確認電話ってなんなん、と。

ただウェルカムそうなのはいい事で、だったらこちらからも挨拶に行こう、と入学前の3月にQ大の社会学研究室に行きました。そこは俗に「院生部屋」とも呼ばれており、各院生に机と椅子が用意されていました。研究者養成の大学院ということもあり、修士1年から博士3年までの5学年で総勢10名程度しかいなかったのです。

一番奥に助手の机と席がありました。

初めまして。4月からお世話になるハナチェンコです(ぺこり)。

と見ると、助手は見るからに私より年下でした(後でわかったのですが、10名程度の院生全員と助手を含めて、私は上から3番目の年長でした)。

お茶でもどうそ

部屋には助手以外にも数名いましたが、シーンと静まり返る中で「ズズっ」とお茶をすすり、話すこともないので

お邪魔しました

と部屋を後にしました。ものすごく気まずかったです。

なんや、やっぱり外様扱いやん

と、うなだれて帰りました。こんな感じで5年間もやっていけるのか、不安しかありませんでした。

学会ではじめての発表がまたこれ...

後で院生や助手に聞いたら、知らない人、しかも歳食ってる人が入学してくるということで、向こうは向こうで緊張していたようでした。内部進学なら「あの後輩が入ってくる」ですもんね。これは確かに大きな違いだったと思います。

意外にもすぐに打ち解けました。ただ、この最初の日のことがあったので、なにかあるとすぐに「どうせ僕は外部進学だから...」とうなだれるふりをしては「もうそれやめてください!w」と笑われていました。助手を含めなぜかみんなから敬語を使われ続けました。

大学院入学直後に先生から、まず九州地区の学会に入会するように言われました。

学会!

なんという響きでしょう。次に全国規模の学会にも入会するように言われました。

後者の全国規模の学会ですが、実は大学生時代に一度入会し損ねていました。

2度目の大学の2年生の頃(1992年秋)、Q大を会場にこの全国規模の学会の大会がありました。当時の会員数ですでに2000人を超えていたと思います。発表しに来る人、聞きに来る人、それは大勢がお越しに来るわけです。私が通っていた大学の社会学系の先生方やゼミの学生もアルバイトで手伝うことになりました。当然私も駆り出されました。

と、会場受付に「学会入会コーナー」のようなところがあるのを見つけました。

学会かぁ。なんかステキ。入会したらどんな会員証が送られてくるんだろう(わくわく)

と、軽い気持ちで申し込んでしまいました。バイト中なのに。会員証などないのに(ファンクラブかよ)。

後日この学会から封書が届きました。曰く

学部生の入会希望はこれまで例がなかったため、小委員会を立ち上げてその可否を審議中です

...なんか大ごとになっていました(汗)。結果的に、入会は認められませんでした。ちなみに今は「準会員」という形で大学生も入会できるようです。

こんなことがあっていたので、学会事務局の中で私はちょっとした有名人になっていたようです(院試面接で口論になった先生から後日うかがいました)。こんなことで有名になってもなんの意味もありませんが。

学会に入るだけなら別にいいのですが、先生から言い渡されたのは

君たち、卒論の内容を学会で発表してください

でした。私を含めて3人の新入院生はみんな発表しなさい、ということです。

これはえらいことになったな...と少し震えました。ただ言われたからにはやるしかないので、頑張ってレジュメを作りました。

レジュメができて気が抜けたのでしょう、最初に発表する九州地区学会(1995年5月)の前日に誘われるままに合コンに参加してしまいました。ちなみに学会は熊本で行われます。そしてここは福岡です。なのに深夜まで合コンで盛り上がりました。

朝はなんとか起きられましたが、集合場所の研究室に着いて気づきました。

あ、レジュメ印刷してない

助手にコピーを手伝ってもらいました。「私はあなたの助手じゃない!」とは言われませんでしたが、内心そんな気持ちだったと思います。もうね。

でも緊張はしていたんです。初めての学会発表だから当たり前です。ただ「初めての学会」だからこそ、いろいろわからなかったのです。会場に着いて、周囲、特に院の先生が怪訝な顔をして私を見てきました。注意こそされませんでしたが。

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これを着て発表したのでした...。私はかなりの暑がりなので、まだ5月でしたが、これ1枚に、下はジーンズ姿でした。しかもこのTシャツはインせず外に出したままで、です。そりゃ怪訝な顔されるわ、と。

なんせ卒論の発表です。それは聴く側もわかっているはずです。なので優しく励ましてくれるのかと思いきや、蓋を開けてみると

あのー、質問したいことが100個ぐらいあるんですけど(ニヤニヤ)

という有様でした。ボッコボコにされました(涙)。でもこういうガチンコ勝負は結構気に入りました。よく考えたら(よく考えなくても)先生には

発表して自分のレベルの低さを痛感すべく恥をかいてきなさい

というご意図があったのだと思います。で、無事その通りになりました。ただ懇親会でいろいろとフォローがありました。優しい世界です。

秋に行われた全国規模の学会でも似たような感じでしたが、お一人、支持的な質問をしてくださった方がいらっしゃいました。関東地区の大学院に通う方でした。発表後話しかけられ「興味深い内容でした。今後ともよろしく」とメールアドレスが書かれた名刺をいただきました。ただ当時パソコンに指一本触れたことがない私は、メールというものを知らず、"@"の記号を見て

名刺の下にかかれた、このナルトみたいなのってなんだろう?

と思い、お礼のメールを送ることもできずにそのままになってしまいました。申し訳ないことをしました。

最近知ったのですが、この方も今大学の先生をされており、なんとあの世界的ドラマーが教え子とのことでした。私もドラマーの端くれの中の端くれですが、これを知った時はビックリしました。もっと仲良くしておけばよかった(をい)。

修士論文で事故発生

そんなこんなで多少やらかしつつも楽しい大学院生活でした。

大学院は修士課程2年、博士後期課程3年の、計5年間ありました(分野によって多少異なります)。

修士論文を書いて口頭試問をクリアすれば、めでたく博士後期課程へ進学となります。それまではワープロ専用機でレポート等を書いていたのですが、修士論文作成用に、初めてパソコンを購入しました。MacintoshのPerforma 5320です。1996年冬、30歳のことだったと記憶しています。え?30歳て...💦

当時大変高価だったMicrosoftのOfficeを追加購入し、Wordで修士論文を作成していました。

ただ当時を知る方ならご存知だと思いますが、この頃のMacのシステム、またWordアプリにはとても危険な爆弾が秘められていました。

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今と違って自動保存機能などありません。こうなるとそれまで書いていた内容が全てパーになってしまいます。

新しいパソコンに新しいソフトウエア使ってるのになんでこうなるん(怒)

という感じで、だましだまし修士論文を作成していきました。

が、(1997年1月の)提出期限日一週間前に、どでかい爆弾がまた出ました。

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なんとファイル自体が壊れてしまい、これまでの内容が全滅しました(涙)。なぜこまめにコピーを取って置かなかったのか、と悔やんでも悔やみきれませんでした。

とにかくあと一週間で仕上げるしかない

とゼロから必死で書き直しました。が、完全には書き上げられませんでした。ギリ体裁を保ってる感じです。いや、ギリアウトだったかもしれません。

案の定、口頭試問の際、先生から

この修論は"to be continued"的なやつですか?

と突っ込まれました。が、その場でいろいろ弁解し(パソコンの不具合の件はとても言えませんでした。言えば「じゃあ中途半端な論文と認めるわけですね」と落とされていたと思います)、なんとか合格にしていただけました。

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博士後期課程に進む

1997年4月(30歳💦)、博士後期課程に進むと、ようやく「研究者のたまご」的な扱いを受けるようになりました。この頃から学会誌などの査読論文(偉い先生方に論文を審査していただき、その審査をクリアして初めて掲載される)に投稿するようになりました。この数と質とで、研究者としての先が見えてくるわけです。ぶっちゃけて言えば大学に専任教員として就職できる可能性が出てくるわけです。

中でも全国規模の学会誌に論文が掲載されるとかなり有利になります。ただその分査読は厳しいです。

これらの学会誌に査読論文を掲載することができ、なんとか光が見えてきました。

今見ると「青い」なぁ、という印象しかないですが、掲載された時はほんと嬉しかったです。

精神疾患の社会的表徴

持ち前のあまのじゃくを発揮して時々先生方に反発したりもしていましたが、どうやらこうやら、大学院の5年間を終えることができました。西暦2000年、もう33歳になっていました。いや、大学院は9月までいたので、34歳はもうすぐそこまで来ていました(誕生日は10/19ですプレゼントお待ちしています♡)。

失敗からスタートするも「教える楽しさ」に気づく

多少話は前後しますが、1996年、修士課程の2年生(M2)の春から非常勤講師として専門学校等で教え始めました。生まれて初めて「先生」と呼ばれ、面映かったのを覚えています。29歳の時になります。

最初に教えたのは准看護師養成の専修学校でした。まだギリ20代でしたし張り切りまくって教えていたのですが、今思えばどうにも自己満足的なもので、なおかつ進度がめちゃくちゃで、1回で終わるはずの「アイデンティティ」というテーマになんと7回も使ってしまいました。授業最終回に書いてもらった感想の紙を見ると、こう書かれてあるものを見つけました。

もうアイデンティティはたくさんです!この言葉聞きたくもありません!

人にものを教えるって大変なことなんだな、今の自分は0点だな、と知らされた瞬間でした。

その後、さまざまな学校で非常勤講師をやりました。以下、修士2年から博士3年までの4年間で教えた学校です。

・准看護師養成専修学校 1ヶ所
・正看護師養成専門学校 3ヶ所
・介護福祉専門学校   2ヶ所
・短期大学       1ヶ所
・4年制大学       2ヶ所

さまざまな学校で教えた経験は非常に役立ちました。研究も楽しいのですが、教えるのも同じぐらい楽しいなぁ、と実感しました。

...次回は(まだあるんかい)最初の勤務先から、です。引き続きよろしくです。

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