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躁寄りの朝

折角感覚が研ぎ澄まされて敏感になっているので、今のうちに書き留められることは置いておこうと思います。

例えば、朝のパン屋。
朝日を浴びながら通勤通学している時、ふと香ってくる焼き立てのパンの香り。朝早くから開店しているパン屋からの爽やかな風。
その労働に感謝しながら、香りだけでも幸福を感じる朝。
一度は皆感じたことが有りそうなこの風を、今朝感じ、書き留めたいと強く感じました。文学的表現がもっと上手に出来たら良かったのですけれど。

クオリア、ですね。
読んだ人にその香りや風を感じてもらえるような文章が書きたいです。

その風を感じ太陽の光を浴びながら、暑さや汗に心地よさを感じていました。
こんな朝は幾度目かになりますが、脳がフル回転しながら歩いていました。

ああ、自分にとって文学とはこれほどまでに大事だったのだな、と再認識しました。
自分が最も信頼し、大事にしてきた文学が、自分から離れていた時は常に怯え恐れていました。自分という核が揺らぐのも仕方がなかったと今なら思います。
本が読める自分がかえってきて、文学が手の届く範囲にかえってきたことで、安心し、安定を手に入れました。
自分の信じる自分がかえってきたのです。

段々と、どんどんと、自己受容が深まってきているのではないでしょうか。

理想状態の自分についてもより輪郭がはっきりし、しっくりと腑に落ちるようになってきました。
今まで考えていたものも嘘ではないのですが、より自分の心に正直になってきている感覚があります。
この、理想状態というのは、通っている就労移行支援事業所で度々考えさせられます。今朝は自分で考え直してみました。

少しずつ、自分の心が見えるようになってきたのだと思います。
幾重にも折り重なっていた靄や殻や蓋がとれ、純粋な本当の自分が見えてきました。
その声を聞けるようになってきました。

まだまだ、まだまだです。
終わりのないものだろうと思っています。
際限のない戦いですが、常に戦っていけたら、そう思います。

しかしこの今の私、その心はきっと今でないと手に入らなかったんだろうなとも考えます。
不服ながら、辛かったことがあったからこその今ということです。
その泥臭さが、結局のところ愛しく、私の求めるものなのだなとも考えます。

これから先もきっと、何度も戻るだろう、とも知覚します。
恐らく何度も同じことを考えるのでしょう。
その度忘れるのでしょう。

だからこそ今、書き留めておきたいな、そう思いました。

またもちろんこの思考や、それに関わって浮かんでくる思いは、いくらか躁によるものだろうと思います。
しかしそこに不都合は無いな、そう感じました。
不都合さえ無ければ良いのです。
躁も、うつも、私なのです。
それさえ含め武器にし愛し認めていきたい。

不都合が出ない程度に留める。
それが、乗りこなすということかなと考えます。

少なくとも今私は自分が躁寄りであることに気付けている。
そのことはまず安心したいところです。

このまま、ゆっくり、三歩進んで二歩下がって、そうやって進んでいきます。

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