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言葉の持つ可能性

昔、通っていた塾の講師が、こんな言葉をくれた事がある。

「人間は見たこと、聞いたこと、経験したことでしか考えることが出来ない。人生を豊かにしたいのなら色んな経験をしてその幅を広げろ。」

当時は高校生で、「ほぇ〜、大人が言う言葉はやっぱり違うなぁ。」程度にしか思ってなかったが、今ならその言葉の真意がわかる。

これから、私の24年の人生について話をしよう。まだまだ若輩者だが、少しだけお付き合い頂きたい。


私は台湾人の母と日本人の父の元に産まれた。父は生後9ヶ月の時に交通事故で他界し、母と2人で暮らしていた。母は愛情深い人間だが、その愛情がよく絡まってしまう不器用な人間で、「娘をしっかり育てなければ」という思いが強すぎて、時に私への暴力やギャンブルにそのプレッシャーによるストレスの矛先を向けてしまうような弱さを持った人間だった。

そんな母に育てられた私は、よく自分の不遇を嘆いていた。同級生と上手くいかなかったり、母に叱られたりする度、全てを環境のせいにして生きていた。

ある時、高校の図書館で「母という病」という本に出会った。母子の愛着形成がいかに子どもの社会性の発達に関与しているかについて書かれた書物だが、その本を通して、私はなぜ自分が他人と上手くいかないのか、母がなぜ暴力やギャンブルに逃げてしまうのか、答えを見出すことが出来た。家庭内で安定した愛着がなかったことで、自分自身が自己を客観視出来ず、自分を認めてもらいたい思いが強すぎて周りから見たら自己中心的な人間でしか無かったのである。そして母が私に辛く当たるのも、私を無意識に所有物として捉えてしまっており、私を育てることで母が母自身の承認欲求を得ようとしていたのだ、と。

このふたつを理解できたことで私の思考はガラリと変わった。まず意識的に外から見られる自分をみるようにし、誰かを傷つけたり不快にすることがないか、自分の言動を見つめ直す癖がついた。そして母とは大学進学を通して離れることを決意した。依存した状態ではお互いに破滅してしまうだけである。母には母の人生を、私は私の人生を歩むことで互いに自立し、それぞれの幸せを追求していく必要があると思ったから。

そうして無事、田舎の国公立大学に進学した。自分の人生を歩き出した私だったが、周りの同級生は親に学費や車を与えてもらっているのに、自分は飲み屋で働いて学費と生活費を工面する日々。また心に暗い影が落ちていた。

そんな時に出会ったのが、「嫌われる勇気」という本だった。この本はアドラー心理学について書かれた本である。アドラーは「人生における様々な経験や環境といったものを自分がいかに捉えるかにより、人生の幸福度は変わる。自分を不幸にしているのは紛れもない自分である」という心理学を展開する心理学者。これはかなり衝撃を受けた。それまでの私はフロイトの「人間は環境や経験で成り立ってしまう」という考えだったから。自分が自分自身の身に起きる不平等や不平を口にする度、そういう境遇にさせてしまっているのは紛れもない自分自身であるのだと気付かされた瞬間だった。

よく良く考えれば大学生にしてお金を稼ぐ難しさやありがたみは痛いくらい身に染みていたし、母との確執によって客観視をすることを覚えてからは人の痛みを理解することが出来るようになった。これは私にとって大きな財産であった。そう、私はただ虐待され、存在を認めて貰えない可哀想な女の子ではなかったのだ。


私の人生には2つの機転があった。その2つともが本との出会いだった。本を通して、活字を通して、言葉を通して新しい思考を学んだ。その思考は私の人生に対する人生観を変え、よりゆとりのある心を与えてくれ、より生きやすくなった。塾講師が思考力の幅を広げろといったのはこういう意味だったのだ。常に新しい思考や言葉を吸収することで、どんな環境であれ人生であれ、自分にとってプラスに変えることができる。それぞれの持つマインドは自由なのだから。そして、この言葉を与えてくれた塾講師との出会いもまた、私にとっては人生の転機だったのだと後々気付かされた。

言葉の持つ可能性は無限大だ。言葉は時に刃にもなるし、時に毛布にもなる。私はこれから先もきっと色んな言葉を通して、色んな人との出会いを通して、色んな経験を通してより豊かに、より自由に生きようとするだろう。

誰もがSNSを通して言葉を発信できるこの時代。今一度、言葉の持つ様々な可能性を一人一人が理解し、適切に扱えるようなそんな世の中であって欲しいなと願う。そして1人でも多くの人がいい言葉に出会い、思考を自由に広げて豊かな人生を歩み互いに尊重し合える。そんな素敵な社会を作り出せたらいいなと思う。


#キナリ杯 #文章が好きだ

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