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隣のあなたに救われている

どれだけゆれても、隣にいるだれかに救われてなんとか歩いていけている。

隣にいるだれかは、家に帰れば夫だったり、仕事の帰り道にほぼ毎日電話してしまう友達だったり、家族くらい大切な存在の東京の子だったり、おひさまみたいな笑顔をいつだって思い出せる元仕事仲間だったり、それからそれから。物理的な隣よりも、「いつも隣にいるよ」みたいな、気持ちの問題の「隣」が多い。

昔はちょっとつらくてもからからと元気に振る舞えるような人間だったような気がするのだけど、いつからかほんのりつらさを感じたらずっとじめじめつらさを引きずるようになってしまって、おまけにつらさの原因から逃げるのがド下手で、中途半端な生真面目さをおともにつらつらタイムを無駄に伸ばしがち。はやく切り離しなよ!そんなのさくっと手放していいんだよ!って、この悩みが自分じゃなければ相手にそういってさくっとすぱっと背中を押しまくっているのに!

けれどつらさに気づいていても、ずぶずぶと悲観して心のひきこもりになるパターンに入ってない、この最近の流れはとてもあたらしくってすばらしい。おかげでだましだまし、一応社会人をやりつづけている。

そうしていられるようになったのは、安心して隣にいられるひとリストがふえたり、リストを何度も確認するようになったおかげだとおもう。

目の前の社会に辟易としておしまいの気持ちになったときに、勢いのままに話ができたり、やわらかく受け止めてくれたり、より明るいほうへ向かっていいことを教えてくれたり、もう疲れちゃったねと笑い合ったり。ひとによってそれぞれ違うかたちで、心のもやもやを昇華させてくれる。安心して隣にいられるひとリストは1年にひとりくらいのペースで増えていって、歳を重ねるごとにほんとうに強い味方になっていく。ちなみに今年新たにリストに加わったのは夫の両親。もちろんまだまだ緊張はするけれど、会うたびにほんとうによい気持ちになれる。この間夫の実家に泊まりにいったときには、いまいちばん悩んでいることを思い切って打ち明けてしまって、でも想像以上に朗らかに受け止めてくれて、そこで晴れてリストへの加入が正式に決定してしまった。裏切るきもちなんてさらさらないけれど、本当に裏切れないなあ、夫と仲良く生きていかなきゃなあって、あたたかい気持ちを抱きながら身を引き締めた。


わたしという人間、不器用だし、めんどくさがりだし、小心者だし、頭の回転おそいし、社会でやっていくのはうまくいかないことのほうがずっと多いっていうのはもう散々わかった。でも最近やっと、今まで出会った大切なひとたちがいるからわたしはちゃんとやっていけるって、本当にようやっと気がついた。まわりに迷惑をかけちゃっても(かけないに越したことはないけど)、自分がひたすらつらくてピーピー喚いてしまっても、他のひとのあれこれになにかを揺さぶられてしまっても、とにかくいま生きてるしそれでオッケー!大切なひともいるしそれで十分。

こまったらみんなのこと思い出して、みんながわたしのこと「わかってるよ!大丈夫!」って言ってくれてるときの顔思い出して、そしたらなんとかなる。自分にとって大切なひと、自分を大切に思ってくれてるひとたちをいつも抱きしめて。みんながいるからわたしはもうぜんぜん大丈夫なんだ!とりあえずいきてるし大丈夫!

そうだ、「大丈夫!」の基準が「とりあえずいきてるから!」というところまでグッと下がったことも、なんとか歩いていけるようになった要因のひとつだなあ。いや、いきてるから、というよりも「色々ありましたがここまで生きてこられたんだから!」が正しいきがする。自分だけがわかっている、29年間のあらゆるすべての困難。それらを一応ぜんぶなんとかやりすごして、いま、屋根と壁のある場所で大切なひとと日々を過ごせている。なんという奇跡。そしてそれは紛れもない現実。そしてこれからも、きっとなんとかなるのでしょう。ひとりじゃ色々むずかしそうだけど、だってわたしにはみんながいるし。「わたしにはみんながいるし」、そのことを事あるごとに思い出して抱きしめて、その度わたしはほっとして前を向ける。

はあ、なんだか、少し前と比べるとずいぶん大丈夫になったなあ。こんなところまでちゃんとこられたのも、たいせつなみんなのおかげ。この場を借りて、盛大なラブをおくります。親愛なるみなさまへ。

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