万葉集

天武天皇

よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見

(画像は国文学研究資料館蔵:寛永20の写本『万葉集』)
これは万葉集にある天武天皇の歌ですが、「『よ』多くね?」だけで頭に残る歌です…(残らないという人は別にそれでいいです)。技法としては折句っていって、和歌とかのなかに別の意味を持つ言葉を盛り込む言葉遊びなんですが、ここではそんな難しいこと覚えなくてよろしい(*1)。
意味は…一応解説しておくと「昔のよい人が良い所だとよく見て良いと言ったこの吉野をよく見よ、今の良い人よ、よく見よ」。
天武天皇って壬申の乱で勝利して、日本で最初に天皇を名乗った人です。天智天皇の弟で、即位前の名前は大海人皇子。

なんでこの歌に「よし」が多く使われているのか。「よしよし」ってしてほしいからとかじゃないですよ。天武天皇の出発点が吉野の里だから。そして、天武天皇が『天皇』だからです。
古代。大和朝廷とかまだ存在しないくらい昔。古墳時代くらいかな。大君(後の天皇)の役割はまつりごとでした。
「まつりごと」には政治も含まれます。祭祀=政治でしたから、切っても切れない関係にあったんです。まつりごとを司る者は、雨乞いをしたり、逆に雨を止ませて太陽を呼んだりと、天候を左右するのが仕事です。そんなんできるわけないじゃん!と思う人、正しい。できません。できるわけないでしょ。無理無理。
でも、できると信じられていたんです。今でも天気予報があるでしょ?慣れてくれば誰でも、空を見て天気を予測することができるようになります。風のにおいで「雨が降りそうだな」と思ったり、「そろそろ雨が止むな」って分かったり。そういうのに長けた人が、まつりごとを司る者として君臨していたと考えられています。農耕にとって、天気は大事ですからね。それを司れる人が権力を持つのも当然です。
この権力者は、だいたい男女ペアでした。きょうだいだったり、叔母と甥/叔父と姪だったり(ヤマトヒメとヤマトタケルとか。卑弥呼も弟とペアだったと言われてますね。こういった共同統治をヒメヒコ制っていうんですが、これに関してはまたそのうち)。

ところで、言霊って知ってます?。言葉に魂が宿るっていうアレ。
良いことを言えば良いことが起き、悪いことを言えば悪いことが起きる。
今でも、結婚式とか七五三とか。神社でご祈祷してもらうとき、祝詞っていうのを読んでもらいます。あれも『言霊』のひとつ。
私はキリスト教徒ではないので、キリスト教やほかの宗教で言葉がどのような力をもっていて、それが信仰にどのような影響を与えているのかについては詳しくないんですが…。結婚式では「切れる」とか「別れる」とか言っちゃダメ。みたいな「忌み言葉」も言霊信仰の影響です。
ついでに。祝福の言葉を述べることを『言祝ぐ(ことほぐ)』と言います。結婚式のスピーチなんかも『言祝ぎ』のひとつですね。
別に何かの神様を信じてしゃべってるわけじゃないけど?って思う人もいるでしょうが、それは信仰が文化のレベルまで浸透してきているから。「そういうもの」っていう感覚が文化です。
そして、先に書いたように古来、大君はまつりごとを司る者でした。天武天皇が即位したのは西暦で言うと673年ごろ。このころになると「まつりごと=雨乞い」ではなくなっていたでしょうが、それでもまつりごとを司る者がなんらかの超自然的な力を持っている(あるいは、持っていたとされる人たちの子孫)という認識は一般的なものだったと思われます。雨乞いをしなくなった大君たちは、言葉の力で『まつりごと』をし始めました。(*2)
言葉の力、つまり『言霊』による『言祝ぎ』も『まつりごと』のひとつだったんです。

話を天武天皇の歌に戻して。
「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見」
この歌は、詞書によると、「天皇の吉野の宮に幸しし時の御製歌/天武天皇が吉野宮に行幸した時に詠んだ歌」とあります。
日本書紀巻28には、天武天皇は天武天皇8(679)年5月5日に吉野宮にて『吉野の盟約/誓い』を交わしたと言われていますから、おそらく、この歌はそのとき詠まれたものでしょう。
吉野は壬申の乱で天武天皇(乱のときは大海人皇子)が挙兵した地。その地の名である「よし」を繰り返す歌を詠んだのは「言祝(ことほぎ)」からではないでしょうか。
だって、天皇だもん。まつりごとを司る力があるんだもん。
天皇のお仕事は、言霊で言祝ぐことだもん。
最後の「よき人よく見」は、命令形です。
では「よき人」とは誰でしょう。いちばん可能性として考えられるのは、同行したと言われる持統天皇です。妻(いわゆる本妻)ですし。続いて考えられるのは、息子(草壁皇子、大津皇子 、高市皇子、忍壁皇子)と甥(天智天皇の息子である川島皇子と志貴皇子)ですね。あと、吉野の豪族たちとおつきの人々。
天皇一家の行幸ですから、同行している者が大勢いたでしょう。離宮もありましたし、吉野には豪族もたくさんいたと言われています。この歌は、吉野の地を天皇として言祝ぐと共に、そういった豪族や同行しているものたちに向けて「よーし、いっちょやったるで!おまえら全員、覚えとけよ!」って伝える意味もあったと思われます。

ただね。
自分の息子や甥たちに、わざわざ自分が挙兵した地で「千年先まで、兄弟同士が争うことのないように誓おう」と言って、皇子たちも「わかりました。その通りです。仲違いしたら、子孫まで滅ぶでしょう」とか言ってるのに…いや、それを「詔(みことのり:天皇の命令)」として誓ってしまったから?1000年どころか100年もしない間に兄弟同士が仲たがいして(っていうか、持統天皇が自分の皇子を早く天皇にしたかったせいで、早まった行動に出たから?)天武天皇の血が途絶えるなんてねぇ…。
言霊って怖いですね~。
もし「仲たがいしたら子孫まで滅ぶでしょう」まで言わなかったら、天武天皇の血筋が途絶えることはなかったのかな…とか非科学的なことを考えちゃうくらい、よくできた話ですね。さすが記録を残したのが藤原の一族だけあります…(この話もまたそのうち…)。

(*1):この歌を「よ」の折句とするか否かは諸説あります。折句で有名なのは「から衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ 思ふ」ですね(かきつばた、が読み込まれている)
(*2)現代では政教分離されてますし、天皇は象徴でしかなく、政治を行うことはありません。現代の天皇をもって古代と同じ性質のものだというのはちょっと暴論がすぎますし、天皇制についてはまだまだ沢山の議論が必要ですから、ここで語ることは控えます(めんどくさいんだよ!)。

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