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おいしいはなし

生まれる前の草原で、大きな神様がちいさなわたしたちを呼び集めてこう言った。「地球は本当にいいところです。緑が多くて、生き物たちはのびのびと暮らしている。あなたたちの多くはきっとヒト、として生まれるでしょう。」ヒト、ヒト、ヒト、とはじめて覚えた言葉を頭の中で何度も反芻する。わたしたちはまだ体も持たない、ただの光だった。だから、顔があることに憧れた、体を持ちたいと切に願っていた。「どんな形になれるかなあ」誰かが言う。「形じゃないよ、ヒトだよ!」髪をなびかせるしぐさをする子がいる。「地球の中で頭脳があるのはヒトだけである、と言われています。ですが、心は全ての生き物に備わっているかもしれませんね。」大きな神様は続けた。「わたしたちは皆さんそれぞれに美しい心があることをよく知っています。何か困ることや、迷うことがあったら自分の心に戻ってくること。」ぽこん、と透明の塊を取り出して賑やかにしている子供たちをたしなめて大きな神様はまた言う。「そして、あなたたちは生まれたらパパとママが迎えてくれるかもしれません。往々にしてそういうものだと聞いています。パパとママにご飯を毎日ご馳走してもらうのですよ。地球という惑星の食べ物はとても美味しく、飲み物もたくさんあるそうですから。」怖がっているわたしの背中を叩いて神様は言った。「とにかく生まれてみなさい、とても楽しいはずです。」

神様の話していたのは全部おいしい話だった。まんまと釣られてきたわたしは地球に適合するのに、ずいぶん苦労した。独特の、(そして往々にしてそれは退屈な)ルールがあること。従わないと仲間外れにされること。やさしいはやさしい、を呼ぶけれども、いじわる、はいじわるを呼ぶこと。貨幣がないと物を買えないこと。パパとママはとても厳しいこと。エトセトラ、エトセトラ!
特に、「ありがとう」「ごめんなさい」が無いとき、何故だろうかわたしが傷つく。むずかしいことばかりで「何故だろうか」「どうしてなんだろう」がたくさん募る。何故だろう、を詰め込んだボトルがぎゅうぎゅうになって苦しそうだ。おしゃべりは苦手、と思っていたのに、「うるさいな、静かにしてくれ。」とたしなめられて、言葉がとまらなくなって喋り続けていたこと、ナイフで指をスッ、と切ってしまった時のように、ちょっと傷ついて血が滲んでいることに気がつく。神様は嘘ばっかじゃないかあ、と1人で叫んだ日の田んぼはとても静かだった。遠くでカラスよけのパーン、パーンという破裂音が響いていた。待ちぼうけ、神様の返事はひとつもなかった。チャイムが鳴るまでに帰ろう。今日はどうしての虫がぎゃあぎゃあ鳴いてうるさいから。大丈夫、大丈夫、とボトルを撫でると、どうしての虫は眠ったらしい。わたしもいつかおかーさんになるんだろうか。大きな神様も、おかーさんも、うるさくて怖くて、いやだなあ。

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