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文学という大河(作家と占星術)

私たちが思っている以上に、感じている以上に
季節の移ろいや月の満ち欠け
そして星の流れ。

見えない世界の流れには、私たちへ大きな影響を及ぼしています。


私は10年ほど占星術の勉強をしてきました。

○○座、とよく言われるけれども、
なんとなくで普及しているように思います。

そこで星座に関して、占星術に関して
普段の研究から思うことや考察など色々な角度から少しずつ取り扱ってみようと思います。
作家と占星術についての関連について見ていきたいと思います。


たまたまですが、安部公房の「砂の女」深沢七郎の「笛吹川」を立て続けに読んで30度のアスペクトの考察をしました。

そんなわけで今回はこれらの本に見る、
30度という隣り合うサインの互換性、それから水瓶座から魚座に向かっていくサインの流れ方について綴っていきます。

「砂の女」も、「笛吹川」も
「自然の無慈悲さ」という抗い難い不条理と、その大きな問題と対峙する人々、という大枠の共通性があります。


まず、安部公房は魚座です。
そして、深沢七郎は水瓶座です(本人は4月生まれと言っていた説もあったが私は絶対水瓶座だと思う)。

水瓶座の次の星座は魚座になります。
そして前の星座と後ろの星座には互換性があります。
似ているようで似ていない、対比的なようで近しいテーマ。そこに隣り合う星座同士の関係と、30度というアスペクトの特徴があります。

魚座の作家、安部公房の「砂の女」。
ある部落という抽象的な舞台ですが、まず砂に囲まれた砂丘に迷い込む、というところに、霧に包まれてしまったような、曇り空を見上げた時のような、ぼやっとした恐ろしさがあります。
また砂丘の家という限定された空間の中。その中の男女という二人は、根源的かつ二元的な存在です。
来る日も来る日も砂を掻きつづける。光と闇、白と黒というような交わらない二人の究極の二元性。原始的な舞台、根源的な存在。まるで退廃的なアダムとイブのようです。

そして水瓶座の作家、深沢七郎の「笛吹川」。
水瓶座の深沢七郎。流れゆく川のように淡々と語られる笛吹川には人間の客観を超えた神のような視点すら感じます。
主人公たち、武田の代の農民はまるで実在した人物かのようなリアリティを感じます。
タイトルに出てくる笛吹川は彼の故郷である山梨県に実際にある川の名前です。また物語に出てくる水害や地方病、また武田軍も史実に基づいているため、ここでまたリアルさがより強調されます。
何度も水害、病、戦というどうしようもない外界の問題に煩わされたり、時に打ちひしがれたとしても、ただ生きる。
身内を殺され、家を流され、どんなに嘆いても立ち上がって淡々と生活を続ける。
ここに人類が続けてきた生命の営みという普遍性、つまり水瓶座の本質がよく表れています。


「普遍性」という性質を、魚座は前の星座である水瓶座で受け継ぎます。

魚座は、前の星座の水瓶座の確固たる前提に振り返る。
水瓶座は、魚座に一旦全てをシャッフルする、カオス的な世界の流れを作る。
水瓶座の提唱する唐突なテーマを、魚座がゆるめる。
安部公房の「砂の女」は人が不条理に陥った場合という普遍的なテーマでありつつ、流動的な砂でまるでビーズを集めてブレスレットを作るかのような(女の内職のようですが)途方もなさが紡がれています。この流動的な砂は牡羊座の文学へ流れていきます。

水瓶座から魚座に転換するなかで、そんな動きがあります。そして牡羊座から続いてきたひとつのテーマを完成させ、また新しい物語がつくられていくのです。牡羊座から魚座まで、すべてのサインは物語のようにつながっているからです。それはまるで流れゆく大きな河のようでもあります。

どちらの本も、不条理、と一言で言えないほど深みのある本です。
砂の女、笛吹川を扱い今回は不条理文学として関連させましたが、
不条理文学の系譜を再考するのもまた一興かもしれません。

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