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父親らしい父親って

glee仲間の石田美也さんのnote「子育てしながら音楽業」を読んだ。カントリーミュージシャンの彼女のお父さんもミュージシャン。ミュージシャンといえば、ルックスがやっぱりサラリーマンとはちょっと違う。そんなお父さんのエピソードが、かなりツボにきた。スーツじゃないし、髪も長いし…。なるほどいかにもミュージシャンのルックスだったんだ。そして幼いころの美也さんは「ああ、普通が目立たなくていいのになあ」と思っていたという。それがやがて大人になった自分もミュージシャンとなり、子育てをする親となった今、その思いは父への尊敬へと変わっていた。

ちなみに私の父親は新聞記者だった。ある地方紙の記者で、若いころは社会部でブイブイ言わせたらしいが、上司にタテつく性格が災いして、後半の記者人生はスポーツ誌や文化部の映画評など、本人の意としない部署にまわされてくすぶっていたようだ。それでも小説もどきを書いていた彼は作家さんたちとの交友も広く、その中には五木寛之氏や夏木静子氏、小島直記氏などがいた。
新聞記者の暮らしはというと、当時はとにかく「飲む」「飲む」「飲む」というのが主流で、会社(新聞社)にいないときは、飲み屋にいる、という感じ。家に帰るのは子どもが寝たあと。子どもが学校に行くときにはまだ寝ているから、小学校時代、父親の顔を見ることは少なかった。笑い話のようなエピソードだが、幼稚園に通っていたとき、父の日のために「お父さんの似顔絵を描こう」というイベントがあったが、私は描くことができなかった。どう考えても父の顔を思い出せないのである。どういうこと?? 

そんな父のことを尊敬するのってなかなか難しいと感じながら大人になった。今考えると、どこか軽蔑するような思いが強かったように思う。何しろ、新聞記者といっても社会性はゼロ。スーパーにも行ったことがない、トイレットペーパーがいくらするかも知らない、ケチャップとソースの使い分けができない、子どもの誕生日も覚えていない…いやふつ~の暮らしがまるでダメ男(古い!)くんなのである。

やがて私は百貨店勤務を経て、地方のタブロイド新聞社に入社し、編集記者になった。自分でネタを探し、取材依頼をし、記事を書く。その時期から、少しだけ父親に対する視線も変わっていったような気がする。モノを書くことの難しさを知ったからこそ、父親のやってきたことがほんの少し理解できたような気がしたのだ。

美也さんも大人になってミュージシャンになり、子育てをして、そして父親の背中がステキに見えてきたのかもしれない。父親らしい父親って、もしかしたら子供のころの妄想なのかもしれないなぁとふと考える。大人になって考える父親像は、人間として尊敬できるかどうか。父親らしい父親と、人間として尊敬できる父親とどちらが重要か…。たとえ、父親らしいことができなくても(一緒にキャンプに行くとか、運動会には必ず来てくれるとか、ね)、人間として尊敬できれば最高だ。

ふと、そんなことを考える、今日このごろ。


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