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ずっとエッセイを書いてみたかった話

エッセイを書いてみたいと思っていた。

べつに面白い人生を生きているわけではない。
むしろ、一般的な社会人よりちょっと生きにくい人生を送っている。

それでも、エッセイを書いてみたかった。


Twitterを始める前は自分のサイトを持っていて、月に3回くらいブログを更新していた。
当時は高校生だったので、試験期間中だとか、友達と勉強会をしただとか、長期休暇中の課外が大変だとか、そんなたわいないことをつらつらと書き、誰に読まれるわけでもないのに満足していた。

おとなになった今でも、あの満足感がどうしても忘れられない。


Twitterを始めるとサイトの更新は滞った。
なんでもかんでもTwitterだけで済んでしまう。
ラクガキを投稿してみたり、自分の気持ちをつぶやいてみたり。
サイトを更新するより手軽になんでもできてしまう。
それが便利なようで、私にはあまり合っていなかったのかもしれないと、今になって思うようになった。


例えば、何か感動したことを綴ろうとしたとき。
ブログの1ページに140字の感想だけだとかなり味気なく感じるし、「私はこんなに感動したんだ!」という思いを書き記すのに140字はあまりにも少なすぎる。
どうやって表現しようかといろんな言葉を考え、調べ、様々な視点から感じたことを述べる。
数十分から1時間くらいかけて記事を書き終えたころには、なんともいえない達成感やカタルシスを感じる。

しかし、ことTwitterとなると話は別だ。
140字という字数制限の中で感動を綴るとき、ことの細部に目を向けていると140字なんてあっという間に超えてしまう。
1つのツイートで語れることには限度がある。
「好き」「素敵」「かっこいい」「かわいい」「面白い」etc…など、単語で表現することが増えた。
なんに対してもとりあえず「素敵」。
色が~、質感が~、こんな細部の小ネタが~なんて綴るスペースはない。
世のオタクたちが語彙力のなさを嘆くのは、ごく短い文章での表現に慣れすぎたせいではないかと考察する。

かくいう私も、Twitterをしている間は断片的につぶやくことだけで気が済んでしまっていた。
あれが好き、これが好き、こんなことに悩んでいる、うまくいかない……。
どうしてそう思うのか、という掘り下げをいつの間にかしなくなっていた。
好きだから好きなんだよ、なぜかって? ……まぁ好きなんだよ。というふうに。


だから、エッセイを書きたくてもなかなかうまくいかなかった。
自分の考えや気持ちを単語でアウトプットしてしまうから、自分の中に文字が溜まらない感覚といえば適切だろうか。
溢れ出る言葉をたった一言で雑に放出していたんだなぁと、Twitterを休止してnoteにいろいろ書きだして、初めて気がついた。

ROM専のTwitterアカウントはあるが、できるだけつぶやかないでおこうと思っているので、今は文字が溢れてくる。
書かなきゃ忘れるんじゃなく、書くから忘れるし、書いたから満足してしまうのだ。


私の人生はこれといって楽しかったり、面白かったりする人生ではない。
体はうまく動かないし、仕事だってフルタイムで働けない。
もちろん、同世代にくらべてお金も持ってないし、遊べるような友達もいない。
それでもなにか綴りたい。

綴りたいから綴るのだ。

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