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生きてるだけで、愛


2019.1  出町座

躁鬱のスパイラルから抜け出せず、私は自分とは別れられない、私と別れられるツナキ(菅田将暉)はいいよね、と泣くヤスコ(趣里)が、最後に私のどこが良くてつきあったのか教えて、という問いへの、ツナキの答えがよい着地点だと感心した。しかもロマンティック。
初めて会った時に酔っ払って額から流血しつつ街を疾走するヤスコを追いかけながら、その翻る青いスカートが綺麗で見とれた、
というようなことなのだけど、何度かインサートされるその映像は確かにとても美しく(趣里ちゃんのアキレス腱!)、起伏が激しすぎる面倒なオンナということを超えて、肉体的視覚的な意味で恋に落ちてそれが持続の支えになるということは、意外とリアルな理由だなと思った。
そして日本の文学青年病妻モノの文脈・・・(ツナキは小説家志望だがゴシップ記者の仕事に甘んじている。)も垣間見れ、なんでこんなオンナと別れないんだ、という疑問はますます打ち消されていく。

見た目やフィジカルが好みであれば性格不一致の壁が超えられるのか、ということを長年何となく考えてるけど、若い頃はだんぜん内面重視と言い張っていた私は、年々ルックスや雰囲気、印象に左右される率が高くなっていて、それは、逆にだんだん内面を見抜く目が育っているということなのかもしれないし、若い頃は、素直に見た目から好きになると口にすることができなかったということなのかもしれない。


光が少ない照明の下、ふたりとも極端に小さい顔に多い髪の毛がワサワサっとかぶさっていて、その隙間から見える、わざと輝きを消しているかのようなのに隠し切れない強い瞳、鼻からあごにかけてのアーティスティックな造形美。
ヤスコのざっくりニット、ツナキの第一からしっかりとめてるボタンダウンシャツ。ふたりのアパートの暗い台所、本と雑誌と服が散乱した部屋、街を俯瞰する屋上。16mmフィルム撮影の映像はなんとも切なく美しかった。菅田将暉は快活でピュアな青年を演ったりもするけど、わたしは鬱屈や闇を抱えた役柄が好きだ。

趣里ちゃんは、最後バイト先でパニックを起こし、高畑勲のかぐや姫みたいに、走って家に帰りながら着てるものを全部脱いでいって屋上でヌードになるのだけど、鍛え上げられた元バレリーナの肉体は妖精じみていて、微塵もいやらしくない。ツナキのリアクションが少しも騒がず「なんで全裸なの(棒)」と、今までこういうことは何度もあった、みたいな感じで、笑う場面ではないのにおかしかった。


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