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なぜ素人が山小屋を運営しようと思ったのか【その1】

昨日初投稿したnoteですが、山にいないときはできるだけ習慣化して書いていきたいと思います。まずは1日最大1時間note時間を作る。その中で書き上げてアップする。慣れてきたら時間短縮する。そんな流れでできたらいいなと思いました。

今日からは「なぜ山小屋で働いたことがない素人が、山小屋運営に手を挙げたのか?」を複数回に分けて書いてみたいと思います。


山梨県北杜市への移住

大学進学とともに神戸を離れた。行き先は信州大学。山に登りたいから選んだ大学だった。信大山岳会に入ることが目的だったので学部はどこでも良かったが、センター試験が終わった自己採点で教育学部のところに「野外活動」という四文字を見つけて、それだけで行き先を決めた。今に続く野外教育コースである。

https://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/education/course/outdoor/

大学は2回の休学を経て6年で卒業(またその話はおいおい)、卒業後も就職はせず山に登り続ける生活を選択。夏は富士山でガイド、冬は富士山で強力(ごうりき)をしていた。強力とはいわゆる歩荷のことで、当時通年観測をしていた富士山山頂にある富士山測候所に、冬の間荷物を届ける仕事である。冬もコンスタントに月に3回ほど、最大30キロの荷物とともに富士山に登っていた(この話もまた機会があれば)。

2003年4月の富士山

夏のガイドを合わせると、富士山に年間50回ほど登っていたので、体力はこの頃がMAXだっただろう。自分で言うのも何だけど、とにかく強かったと思う。
富士山に仕事のベースがある時に住んでいたのが甲府だったが、もう少し山の近くがいいなと思って縁あって移住したのが八ヶ岳の麓である長野県富士見町。ここですでに八ヶ岳をベースに山岳ガイドをしていた友人たちとつながり、およそ3年ほど過ごした。
やがてまたまた縁あって北杜市の空き家を紹介され、借りて住むようになった。2007年の話だ。

八ヶ岳南麓を選んだ理由は、日本一とも言えるクライミング環境があったからだ。日本を代表するクライミングエリアである瑞牆山や小川山に近く、加えて1時間圏内に無数のクライミングエリアがあった。また甲斐駒ヶ岳や八ヶ岳といった山がすぐそばにあり、上高地方面に行くにも2時間かからない素晴らしい環境だった。

富士見町、それから北杜市は、八ヶ岳の山麓に広がる街だ。当時から別荘も多く、都会からの移住者も少なくなかった。クライミングにも登山にも恵まれた環境である。しかし当時はその環境を活かした街づくりみたいなものは感じられなかったし、本当にもったいないなあ、という気持ちで過ごしていた。しかしその当時は自分のクライミングのことしか考えていなかったので、「もったいないなあ」と思うことはあっても別にどうでも良かった。

ピオレドール受賞と心境の変化

2012年秋にネパールヒマラヤのキャシャール南ピラーを登り、翌年ピオレドール賞を受賞した。(動画音出ます)

もともとフィジカルは誰にも負けない自信があったが、メンタルが弱かったので、プレイヤーとしての自分の才能には20代の頃から限界を感じていた。自分は決して、この世界でプレイヤーとしてトップには立てないと。

36歳でこんな結果に恵まれたのは、単純に山登りを続けていたことと、強いパートナーに恵まれたこと、このときまだこのルートが未踏だったこと、たまたま山にいた1週間の天候が安定していたこと、などが重なったに過ぎない。

授賞式の様子
このときはノミネート全チームが受賞
シャモニーの街で
クールマイユールの街でも

しかしながらひとつの大きな結果を出したことで、周りの見る目は変わった。事実としていろいろなスポンサードのオファーをいただくようになった。それだけで生計が成り立つ、いわゆる「プロ」としても動けるようになった。資金にも時間にもとらわれない。山に関しては完全な自由を手に入れた。

いつでも好きなように山に行ける。
しかし前に書いた通り、プレイヤーとしての自分の才能にはすでに見切りをつけていた。自分にしかできないことはなにか。そこで思いついたプロジェクトが「ヒマラヤキャンプ」だった(これはまた書きます)。自分ができる役割は、先輩方から継承してきたものを次の世代に引き継いでいくことであると思った。

それに加えてもうひとつ大きな転機があった。

七丈小屋前管理人さんからの思わぬ一言

30代は自分のクライミングと平行して、専業で山岳ガイド業を営んでいた。仕事としてもトレーニングの場としても、甲斐駒ヶ岳黒戸尾根は何度となく通っていた。

甲斐駒ヶ岳黒戸尾根は「日本三大急登」と呼ばれている標高差2200mの登山道である。日本屈指の標高差(つまりキツイ!!)を誇るこの道は、ステップアップしながら登山を続けている人にとって憧れのルートでもある。このルートの七合目、登山口から標高差1600m登ったところに七丈小屋がある。当時は名物小屋番さんがこの小屋を一人で切り盛りしていた。僕も何度となく訪れていて、非常にお世話になっていた。

2014年のある日。トレーニングでふらっと黒戸尾根に登りに行った時、この小屋番さんから「俺はあと3年で山を下りるから、誰かいい人がいたら紹介してほしい」と頼まれた。屈強堅物で通っていた名物小屋番も、とうとう山を下りるのか、という寂しさと同時に、この小屋を引き継ごうという人は現れないだろうなと思った。

書いた通り、標高差1600mにある通年で営業している山小屋。まず環境が厳しい。そして登山者は決して多くないので、経営としても難しいだろう。そんな火中の栗を拾うような人が果たしているのか。。。その時は「探してみます!」と返事して下山したが、適任者が現れないまま1年が過ぎた。

2015年の秋。このときは第一回目のヒマラヤキャンプに行く直前だった。
僕のガイドのゲストの中に、歳が近い経営者の方がいた。その方との出会いはこれよりも数年前だったが、とても刺激的な話(企業経営とか考え方とか行動力とか)をたくさんお聞きしていた。毎回のこの方との登山は楽しく、ガイドでありながら毎回勉強させてもらっていた。
そして2015年の秋に、この方と黒戸尾根に行く機会を得た。

その2に続く。

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