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【長編】夢女

 僕が覚えている限りの話をしよう。あの女と会ったのはまだ寒い春のことだった。風が強く、安いアパートの窓は立て付けが悪く、がたがたと音を立てる。深夜2:00。なかなか寝付けない。そんな夜の話だ。

第1章 初夢

 どこを見渡しても一点の曇りさえない真白な空間。上も下も、右も左も通用しないような境界の存在しない世界に僕は横たわっていた。真綿の中のような心地よさに僕は動けずにいた。指先の一つでさえ。しかし、心持ちとしては不思議とどこまでも落ち着いている。見たこともない、動けない状態でいながらも落ち着いていられるのは、彼女の長い黒髪が僕の頬をくすぐるからだろうか。それは彼女の体温を感じることができるからだろうか。息を切らし切らし僕の上に跨るこの女に、僕は気が付いた時には恋をしていた。

 目が覚める。太陽はすでに昇っていた。カーテンの隙間から差し込む陽光が、部屋の中を漂う埃をキラキラと露わにしていた。飲んでいたウイスキーはすっかり溶けた氷で薄くなっていた。ズキズキと頭痛がして顔をしかめる。7:28。時間を確認するのと同時に僕は股間に違和感を感じて手を当てた。右手が湿りを確かに感じて、それをおもむろに鼻に持っていくと、確かに自分の匂いがした。夢精した。その時にできたスウェットのシミにさえ、僕は愛しさを感じていた。ベッドから起きて右手にあるカーテンを開ける。部屋は途端に明るくなり、いつもの現実を目の当たりにした。妙に気怠気な、頭の冴える、そんな朝だった。

 都内の大学に入学してまだ1ヶ月程経った時の話だ。上京した僕にとって一人暮らしと、東京の寒さと冷たさがまだ真新しかった頃の話。冷たい水で汚れたスウェットと下着を洗う。今朝の夢を思い出す。あの女は誰なのだろう。レンジで温めた牛乳を忘れて、僕はシャワーを浴びた。下腹部がぬめりを帯びていて、それをしっかりと洗い流す。しかし、脳裏には彼女がこびりついたままだった。

 風呂場から出て濡れた髪をタオルで拭いながらテレビのリモコンを手に取る。女子アナウンサーが昨夜起きた殺人事件を読み上げている。 都内で起きた殺人も、レンジの中の牛乳も、まるで他人事のようだ。それは今朝の女のことについて思い耽っているからだろうか。目が覚めてから考えているのはもうずっとそればかりだった。

 大学までは家から歩いて30分ほどの距離だ。普段は電車を使って通学しているが、昨日の強風が嘘みたいな晴天の今日は歩くようにしている。途中、十字路に差し掛かったところで左手に公園へと繋がる階段がある。ベンチとブランコが一つずつある小さな公園だが、僕はそこで煙草を吸うのが日課であった。大してない階段を登ると十字路がよく見える。

ポール・スミスのトートバッグからマルボロを取り出して火を点ける。煙を吐きながらベンチに座ると、向いにはフェンスが敷かれ、その奥に土手が盛られて線路が走っている。普段通学に使っている電車がその上を滑走する。たまにここで煙草を吸っていると大学の最寄り駅へ向かう電車が左から右へ走っていくのが見える。今日も遠くから線路を軋ませて疾走する鉄の塊がやってくるのが聞こえてきた。そしてそれはすぐに僕の前を学生を孕みながら横切って行った。

 すっかり短くなった煙草の火を消し、携帯灰皿の中に押し込む。全てをトートバッグにしまいながら階段に差し掛かると、ちょうど公園から向いの歩道に僕と同い年くらいの女が歩いていた。公園から見て横断歩道を渡った先の左から来たところを見ると、きっと、その坂を上った先に住んでいるのだろう。左手に伸びる坂は僕が見るだけで息が上がりそうなほど急だった。そして彼女が歩いていく方向は間違いなく僕の通う大学の方向だった。

階段を下って横断歩道の信号を渡る。その女は僕の少し先を歩いている。昨日の強風で桜の花弁が歩道に汚らしく散っている。誰かに踏まれ、浅黒いピンクになったそれは痛々しかった。そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか彼女のすぐ後ろまで来ていた。僕は歩幅を少し拡げて彼女を追い越した。彼女を追い抜かす時にちらりと目をやると、肩にかかるくらいの茶髪と、それが揺れるたびに見え隠れしていた耳には白いイヤフォンとピアスが挿入っていた。 それを見て僕は今朝の女のことを思い出す。
「(夢の女はピアスしていたかな……。)」

 大学の正門まで来る。春の陽気に包まれて眠そうな警備員が通勤してくる教授に挨拶をしている。僕は彼の横を通って、奥の、最初の講義がある棟まで歩く。 最初の講義が実施されるのはキャンパスの中で最も奥の棟だ。そこまで歩いていくにも多くの学生とすれ違う。しかしその中に友人と呼べる存在はいなかった。

いつも一人で講義を受けて、昼食を食べ、そのまま帰宅する。その毎日を今まで繰り返してきた。特に不満もなかった。元来、僕は一人でいることが苦ではない。中学や高校時代には何人か友人がいたので人並みに楽しい学生生活を送ることができたが、それが大学の、完全に主体性が問われる社会様式に僕はある種のショックを受け、今までの御膳立てされていたような友人と過ごしていたことに気が付いた。それに理解してからは早かった。中学高校時代の友人は嫌いというわけではないが、特別好いているわけでもない。今や選べるようになったのだがら好きな人とだけ過ごそう。そう考えると一人の時間というのは、その人と出会うまでのブランクのようなものだと考えると、孤独だとか寂しさという類のものは僕の中でいくらか小さくなっていった。

 だから僕はこの東京の地に降り立った瞬間から一人だ。それは自分が選んだものだし、それに対しての不満は何一つない。そしてこれからも、卒業するまでそう過ごしていくつもりだ。

 キャンパスに整然と敷かれたレンガは、そこはかとなく洋式美を意識しているようだった。しかし、そこに建てられているのはどれも耐震設計のコンクリートの塊であり、合理主義の日本独特のアンバランスさが辺りを支配していた。それでも、年季の入った建造物には所々に苔が見え、この大学の歴史の長さは奇しくもヴィンテージであるという点においては調和が取れているようにも感じられた。時が経つにつれて少しずつ建造物に付いたスレや汚れは学び舎としての説得力を増している。その歴史の長さや、整頓されたキャンパスに通えるのは僕の数少ない誇りの一つだった。

 正門から歩いてすぐ右手に人気カフェチェーン店があり、さらに奥へ進むと仰々しい噴水がある。ぎらぎらと輝く陽光に水滴は煌めきを放ち、近くを通ると若干の涼しさをもたらしていた。噴水から四方へと各学部へと続く道が通っており、僕の通うキャンパスは右手に並ぶ階段を上がったところだ。階段を上がった先には食堂や生協も並ぶ大学の中でも大きいメイン通りがあり、学生の往来が最も多い場所でもある。食堂を過ぎて右手に曲がると大学図書館に続く細い道がある。地下を含め3階建になっている図書館はこの地域の中でも屈指の蔵書数を誇っていた。僕の目指す棟はその図書館に向かう途中にある。例に違わずコンクリートでできた比較的新しい4階建のF8棟だ。9:00から始まる最初の講義はこの最上階で行われる。

 僕は8:45には教室に着き、入り口の壁にあるカードリーダーに学生証をかざす。ピッという電子音で自分がこの教室に存在していることを確認した。そのまま、窓際の、入り口から遠く、そして教授からも遠い席がちょうど空いていたのでそこに座る。この教室は3人がけのテーブルを置いてあり、皆友人と座って談笑をしている。比較的この講義をとっている人は少ないので、一人で悠々と使うことに抵抗はなかった。僕はトートバックからノートとペンを取り出す。講義開始が近くなり、続々と学生が入ってくる。その中に今朝のピアスの女がいた。友人を見つけたのか嬉しそうにイヤフォンを外しながら友人の元へと駆け寄っていく。嬌声を挙げながらはしゃぐ彼女たちを見て僕は不思議と羨ましいと思っていた。

僕には友人と呼べるような人はいない。いざ友人ができても、付き合いが長くなるとどうしても億劫に感じてしまって、気楽でいられないことに後悔してしまうから作ろうとはしなかった。一人で物思いに耽っている時が好きだった。それは小学生の頃から変わらなかったし、変わることを強制されることもなかった。

9:00を少し過ぎたくらいに年配の教授が入ってきた。教壇に着くと学生一人一人の名前を呼んで出席名簿にチェックをつけている。彼は金縁の、そしてかなり分厚いレンズの眼鏡をかけ直しながら
「大崎」
ピアスの女は、返事をしながらその白い右腕を軽く挙げた。

 講義が始まった。相変わらず退屈なもので、マイク越しでくぐもったその声はいつになっても聞き取れなかった。最初は書き込んでいたノートも気が付けば今朝の夢のことばかり考えるようになって、いつの間にか講義に置いていかれていた。しかし、不思議とそこに焦りはなく、確かにあるのは今日もあの人に会えるだろうか。そんなことばかりだった。いつしか終了のチャイムが鳴った。

 その日の午後からの講義もどれも似たようなものだった。少し早めに教室に着いて、誰からも遠い席を陣取り、講義が始まっても僕の頭は今朝の夢に大半を奪われていて、時間がすぎた後に残るノートは真白のままだった。自分が志望して学んでいるのも関わらず、椅子に座って回る長針を確認する無為な時間をひたすらに過ごした。いつしか日は落ち、今日の講義は全て終了した。

 僕は絡まったイヤフォンを手に取ってF2棟から出る。相変わらず眠たそうな警備員の横を通り、痛々しい桜の絨毯を踏みつけながら、いつもの十字路といつもの公園に着く。公園には街灯が二つ立ち、蛾が集っている。僕はそこから遠いベンチに座る。煙草に火をつけ、煙を吸っては吐く。目の前で溶けていく煙を見つめながら今朝の夢について考える。この先の、二人の将来について考える。きっとこの煙のように、誰にも存在を信じてはもらえないのだろう。僕にとっては現実よりもよっぽどリアルなのに、それを証明する術を知らない。遠くから電車が線路を滑ってくる音が聞こえてくる。座っているベンチからは真正面にフェンスがあり、その奥を電車が横切っていくのが見え、連続して僕を照らす車窓からの灯りから目を逸らし、チラチラと連続する光の中で財布の中身を確認した。今の僕にとっては眠ることだけが楽しみであり、喜びだった。そして僕にはその時、夢の女と会える確信があった。短くなった煙草吸い殻をアルミニウムでできた筒状の携帯灰皿に捨てて、一旦家を通り過ぎてから駅前のスーパーでウイスキーとラムレーズンチョコレートを買う。僕には、これで良かった。  

第2章 出会い

 ぬめったように輝く黒髪が、僕の指からするすると流れ落ちていく。ぱさり、と抜けきった髪は僕の頬を鞭打つように叩いた。それがくすぐったくて僕は笑ってしまう。それにつられて僕に覆いかぶさっている女も笑う。肩が揺れる度に黒髪が波打って僕をくすぐる。何かの花の香りが辺りを包み、もう一度僕はこの人の髪で遊ぼうとする。下から掻き上げた真黒な髪は僕が伸ばした腕より長く、毛先に向かうにつれてだんだんと緩いカーブを描いて垂れ、美しい艶と瑞々しいハリをありありと僕に見せつけていた。僕は彼女のこの髪が好きだった。僕が彼女と繋がりながら髪を梳かして、笑い合うこの時間が好きだった。この時間が永遠に続けばいいのに。夢なんか覚めなければいいのに。僕は本気でそう思っていた。

 朝、僕は昨日と同じように大切な何かを失ったような喪失感を抱えて目が覚める。鼻腔にはまだあの花の香りが残っていた。指にはシルクのようなあの髪の感触が残っていた。まるでついさっきまで隣にいたように思える。僕は夢の女性に恋をしていた。

トーストも、温めた牛乳も、マーマレードの味も、アナウンサーが読み上げるニュースも、なにもかもわからなかった。
その日も僕はいつもの公園でいつものマルボロを吸う。煙草の臭いで消えるはずの花の香りはいつまでも残り続けた。それを消そうと僕は何本も煙草に火をつける。消えない香りは僕にいつまでも付きまとい、その度に髪の感触とそれのくすぐったさを思い出させた。忘れたいわけではないけれど、彼女が僕にとって非常に大きな存在になっているのは明らかだった。

どこからかヒラヒラと舞ってきた桜の花びらに向けて煙を吹きかけ、夏を帯び始めた風に運ばれていくのを眺めていると、視界の端で電車が横切っていくのが見えた。時計に目をやるともう公園を出なくてはならない時刻だった。
桜も散り始め、ピンク色の絨毯も黒ずんできた日の昼は、日差しを確かに感じられるようになっていた。まだ汗かくほどではないが、重たいコートを着なくなる、そんな季節。

 大学に着いてF8棟に入ると明るい色の洋服を着ている人が目立つようになってきたことに気が付く。教室に入り、誰からも遠い長机に座る。紙とペンを取り出し、夢が消えないうちに、ーーー消えることなんてないけれどーーー夢の女性をスケッチしようと思った。しかし、ペンは一向に動かなかった。どんな顔も違う。自分が今まで会ってきた誰とも違う。しかし確かに美しいその女性を、僕は髪の一本でさえ書くことができなかった。辺りはどこからか漂う花の香りに支配されていた。

講義もいくらか過ぎた頃、途中で誰かが遅れて入ってきた。その女は唯一空いていた僕の長机の隣に座った。
「すみません、今やっているところって何ページですか?」
僕はそれに答える。その女は短く、しかし人当りよくお礼を言って教科書を手繰り始めた。隣の女をよく見ると昨日登校している途中に会った女だ。掻き上げた茶色の髪からは肉厚の耳を飾るシルバーのピアスが見えた。

講義が終わり、茶髪の女はそそくさとすぐに教室を出て行ってしまった。僕は昼食を食べに学食へ向かう。学生の往来が多いメイン通りを過ぎて学食に到着した。この大学は学食が一つの棟になっており、寿司からイタリアンまで様々な食事を楽しめる。しかも学生向けとあって料金は500円前後と良心的だ。僕はその中でいつも利用しているカフェに入った。ナポリタンの食券を買って列でお盆を抱えながら待っていると、賑やかなカフェの中で茶髪の女が見えた。友人と楽しそうに昼食をとっていたが、ちょうど同じタイミングで僕に気づいた。お互いに会釈をすると、彼女は周りの友人は僕の顔をジロジロ見た後に色々訊かれているようだった。

窓際の席がちょうど空いて、僕はそこでナポリタンを食べる。食べながら窓の向こうの景色を眺める。春はもう消えてしまいそうに太陽は輝いていて、風が木々を揺らすたびに、桜の花びらはどこか遠くに消えていく。一体いつから僕は夢を見始めて、いつから僕はあの女に恋をしたのだろう。いつの間にかあの女は僕の夢に居座るようになって、僕は彼女に毎晩会いに行く。確かに眠っているはずなのに日中は頭はぼうっとしていて、講義の間もペンが止まってしまうこともある。煙草の煙を眺めるたび、頭に浮かぶのは決まってそのことだ。

僕はナポリタンを半分も残して大学の喫煙所に向かう。メイン通りを通って噴水をそのまま通り過ぎると喫煙所がある。その途中の自販機で、安っぽい味の缶コーヒーを買い、マルボロに火をつけた。僕の他に何人かいたけれど、どいつもこいつもまるで夢を見ているかのような、現実には僕しかいないような、そんな錯覚を覚えた。

午後の最後の講義も面白いくらいに退屈だった。教授が何か喋ってはいるが、まるで日本語を理解できない。気が付けば昼食後の眠気が襲ってきた。抗えない瞼の重さに僕はいつしか眠ってしまった。

 女がいた。彼女の胸まである長い髪は、毛先まで美しい艶を持っていた。僕はその髪にまた触れたいと思う。指で梳かしたいと思う。しかし、僕と女の間には2メートルばかりの距離があり、僕はなぜか足が動かなかった。手を伸ばしても届かない。女は僕を見るだけで何も喋らない、何も動かない。胸を締め上げるような耐え難い痛みが僕を襲った。まるでこれが会うのが最後であるみたいに、まるでこれが永遠の別れであるかのように。なぜだかわからないけれど、そう思えた。今にも泣きだしてしまいそうな僕に彼女は何か話しかける。しかし声が小さすぎて何て言っているかわからない。僕は近付こうと思う。足は動かない。彼女の口元が動き、僕はそれを聞き取れない。焦り、不安、そして恍惚。様々な感情が感情を塗りつぶしあって、あふれ出てくる涙は一体どこから来たのかわからない。僕は—————。

「広瀬くん」

そのいかにもな老人は僕の名を呼んだ。いやな汗をぐっしょりとかいていた。僕は返事をして、返却されたレポート受け取った、席に戻るまでの間にふと茶髪の女と目が合った。小さく手を振る彼女に僕は会釈で返事をした。そんな中でも、僕は夢の中のあの人が一体何を伝えたかったのかが気になっていた。

講義が終了し教室を出る。メイン通りの生協に併設されているコンビニに寄ってアイスコーヒーを買った。ストローを刺したそれを啜りながら正門に向かう。通りは帰りの学生で混み合っており、僕は誰かに当たってコーヒーをこぼしてしまわないように少し距離をとって、大きな流れを乱さないように歩く。普段よりゆっくり歩くことは同時に時間も遅くなった気がした。正門を出ると駅に向かう人たちと、歩いて帰る人たちとで別れた。大学が徒歩圏内にある人は少なくない。僕は目の前を歩いて帰る人たちの流れに身を任せた。歩いているうちにだんだんとお互いの距離が遠くなったり、近くなったりする。そんな中で僕はただぼうっとしていると
「あ」
とか聞こえた気がしたので振り返ってみると、今朝遅刻してきた茶髪の女だった。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ、僕は特に何も…」
そんな教科書のページを教えてここまで律儀にされるとは思わなかった。それに僕は特に理由もないけれど早く帰りたかった。
「帰り道はこっち?」
茶髪の女は細い指でちょうど公園の方向を指していた。
「うん、そうだよ」
僕は本当のことを言った。
「私、大崎美穂っていうの。よろしくね」
「僕は広瀬浩一。よろしく」
大崎は随分と喋るのが好きな女だった。新潟県出身で、東京に住んでみたくてこの大学を選んだ。サークルは今は悩み中。もしよかったら広瀬くんも一緒にやらない? そういえばこの間言った駅前のカフェすごく素敵だった。アンティークっていうかヴィンテージっていうか、そういうの好きなんだ。あ、自分の話ばかりしてごめんね、男の子と話すの久しぶりで。高校はほとんど女子校みたいなかんじだったから。

大崎は周りよりも少し身長が高くて、大体僕と同じくらいだった。白いシャツにジーンズ。古着のような、しっかりした生地のオーバーサイズ気味のそれは大崎の華奢さを余計に際立たせているようだった。そんな時
「広瀬くんって普段何して過ごしているの?」
なんの変哲もない質問のはずなのにドキリとした。夢を見るために寝て現実の世界に起きると絶望する僕の心を見え透いているような質問と、大崎がいつの間にか俯いていた僕の顔を覗き込んでいたからだ。陰になった黒目がちの目は深淵のようにどこまでも深い気がして、僕はそれに溺れてしまいそうだった。
「寝てるかなあ、いつも」
「ふうん」
大崎は前を向き直して、垂れてしまった髪を耳に掛け直した。日差しに当たって輝くピアスも、普段と違って見えた。
大崎は顎に左手を当てて考え込んだ。その時、シャツの袖が重力に引っ張られてするりと落ちた。露わになった腕は今にも折れてしまいそうなほど細く、そして曇りを知らないような白だった。向こうから照らす陽光が彼女の整った輪郭を際立たせる。僕はいつまでも眺めていたいと思えた。
「どんな夢を見るの?」
大崎はそう尋ねた。僕は言葉に詰まった。毎晩夢の女に会いにいくなんて、ほぼ初対面の人に言えるわけがなかった。
「同じ人がいつも出てくるんだ」
そう答えるのが精いっぱいだった。
「ああ、そういう人ってなんだか気になっちゃうよね」
本当に見透かされてる気がしてきた。
「なんか笑っちゃうけど、私昔ね、夢で会った人のこと好きになっちゃったことあって」
小学生の頃なんだけど、毎日その人と海辺でデートをする夢見てて、すっごく素敵で顔立ちも整っている人なんだけれど、今になっては全然思い出せないなあ。あ、夢であった人に恋するなんてバカみたいだよね。自分でも笑っちゃうなあ。

多分、君が思っているほどきれいなものじゃない、僕は喉まで上がってきたそれを飲み込む。
それからたわいの無い会話をしながらしばらく一緒に歩いていると、いつもの煙草を吸う公園の前の十字路まで来た。横断歩道を渡った先が公園で、大崎はここを右に曲がった先の坂を上がって角を入った所にあるアパートで一人暮らしをしているらしい。僕たちはお互いに連絡先を交換して別れた。その時大崎は今度教科書を見せてもらったお礼をさせてほしいと言った。僕は大したことなんてしてないと断ったのだが、どうしてもと言って引かない少し頑固な人だった。

 横断歩道を渡って、階段を上がる途中でいつものマルボロを取り出す。その時、向かいの坂道を振り返ると、ちょうど彼女もこちらに振り向いて手を振っていた。それは大学の時とは違い、大きく、こっちが恥ずかしくなるような無邪気さを僕に思わせた。咥えかけの煙草を外して僕も手を振る。彼女はそのあと角を曲がって見えなくなった。僕は上着のポケットからライターを探す。煙草を咥え直しながら夢の女があの時なんて言おうとしていたのか思い、大崎の言ったことを考える。頭は昨日の安いウイスキーのせいで鉛を詰められたみたいに重く、首は軋んで痛かった。煙草に火をつけて揺らめく煙をぼんやりと眺めていると、マルボロの香りの中に花の匂いがした気がした。だけれど、それもまだ春を捨てきれない冷たい風が排気ガスの臭いと運んでいく。ぱさり、とほとんど吸っていない煙草が灰になって落ちた。僕はただ気づけず、腿の上に落ちたそれをそのままに、しばらくベンチに座ったままでいた。向こうのフェンスを越えた先で電車が走る。僕を照らすと思った時、とっくに夕日は落ちていた。

第3章 触れ合い

 その日の夢は今でもはっきり覚えている。僕は夢の中でもいつもの公園で煙草を吸っていた。僕はベンチで座りながら吸っていて、目の前には昨日大学で知り合った大崎が立っていて、僕に何か訴えかける。声は届かない。僕はそれに耳を傾けようとすると、彼女の後ろに夢の女が立っていることに気付いた。彼女の右手には包丁が握られていた。

嫌な汗と動悸で飛び起きた。Tシャツはぐっしょりと濡れていて、それを慌てて脱いでシャワーを浴びた。昨日飲んだウイスキーが頭をガンガンと鳴らす。空の色が変わり始めた午前5時前、タオルで髪を拭きながらこの季節の朝がまだ寒いことを僕は再認識する。カーテンを開けてもまだ暗い部屋で、淹れたてのコーヒーを啜る。天気予報士が今日の東京は一日中曇りだと伝える。僕はそれを聞いて今朝の夢も曇天だったことを思い出す。それとどつかれた思いでキッチンへ行き、シンク下の収納棚に包丁があることを確認する。
「ばかだよな」
自分にも聞こえないような声でそう呟いた。

 大学に行くには早かったが、家にいてしまってはぐるぐると頭の中で今朝の夢が繰り返される。もう一度冷たい水で顔を洗い、ライトな上着を羽織って、昨日から玄関に置きっぱなしになっているトートバッグを肩にかけ、そのままゆっくりと歩いて学校へ向かう。桜はもうどれも散ってしまっていて、桃色の絨毯も皆に踏まれて粉々になって、端に泥に塗れて黒く絡まり固まっていた。僕はイヤホンを差してMarron5のmiseryを聴く。僕がちょうど中学生くらいの時に流行っていた曲だ。それをなるべく大きなボリュームにして、今朝の夢をなるべく思い出さないようにしていると、公園のすぐそばにまで来た。階段を上がり、いつものベンチでいつものマルボロを吸う。木製のベンチは少し冷たかった。ここから見える景色は今朝見た夢と同じだ。足りないのは茶髪の女と夢の女。包丁を持った夢の女は、すべてを飲み込んでしまいそうな黒い髪でその表情を隠していた。笑っていた気がするし、泣いていた気がする。僕はどちらをを望むのか。どちらをを願うのか。

目の前のフェンスを越えた先で電車が通り過ぎる。まだこの時間は乗客は少ない。僕はCASIOの腕時計に目をやった。午前6時。どれだけゆっくりしていてもまだ開講までに時間があることを確認して、もう一本煙草に火をつけた。それを僕は何度も繰り返した。火を点けて、火が消えて、灰が落ちて、灰が落ちた。しばらくすると公園から見下ろす先に大崎が歩いてくるのが見えた。僕はまだ火の点いているそれをもういっぱいの携帯灰皿に無理やり突っ込んだ。トートバッグを肩にかけなおして、公園を出て何段もない階段を下りる。信号は赤で、まだ渡れない。横断歩道のその先の彼女も僕がいるのに気が付いたようだ。小さく手を振る彼女に僕はそれよりも小さく振り返す。夢の中だけの話であったら、もう彼女は亡くなっていて僕はもう二度と会えないと勝手に悲観的になっていたのを思い出し恥ずかしくなった。信号が青になって小走りに向かう。すぐに上がってしまう息も今は関係なかった。
「おはよう」
「おはよう」
大崎は続けて、
「メッセージ送れてた、かな」  
僕は携帯を取り出す。そこには「大崎美穂からメッセージが届いています」と今朝通知が届いていた。今朝の夢で何も見ていなかった。
「今見たでしょ」
ごめん、と謝ると大崎は笑った。
「いいよいいよ。ね、早く学校いこ」
僕と大崎はその日の1限が一緒だった。眠たそうな警備員の横を通り、噴水を過ぎて、メイン通りの食堂と生協を横目にゆっくり歩いた。今日もF8棟で講義が始まる。3階に到着し、教室に入ってカードリーダーで自分の存在を確認する。誰からも遠い席で、今は隣に大崎がいるが、僕は窓側に座る。トートバッグから紙とペンを取り出して教授の到着を待った。しばらくしてワイシャツのボタンが今にも弾け飛びそうな太った男性の教授が入ってくる。こんな涼しい日でも、彼はハンカチを手放さない。窮屈そうなネクタイに締まった首元にぐい、とハンカチを押し込んで何度も汗を拭う。その様子を僕が真似をすると大崎は笑った。

 彼女は僕に様々な話をしてくれた。新潟出身はまだ雪が残っていること、初めての一人暮らしでゴキブリを見たことがないということ、今年の夏は太平洋を見てみたいということ、ラーメンもケーキも好きだということ。僕たちはなんでもない話でクスクスと笑いあった。
「ねえ」
僕はそれに何?と訊くと
「このあと空いてる?」
「今日はあと3限が残っているからその後なら」  
「じゃあ3限終わり駅前集合ね」
うん、でもどうしてと僕は訊こうとした時、終礼のチャイムとともに大崎は友人の元へと行ってしまった。

 僕が通う大学の図書室は、都内の大学の中でも屈指の蔵書数を誇っている。しかし、その中でも夢に関する本は少なかった。心理学に関する本の中でチャプターとして夢が取り上げられているものもあったが、夢に現れる異性について書かれた本はなかった。「夢幻十相」という古い小説があったが僕には到底理解できそうにない内容だった。しかし、もしこれが何かしらの手がかりがあるのなら僕はそれにさえすがりたいと思い、小説を借りて次の3限の講義の準備をした。

 3限の講義の間僕は「夢幻十相」を読んでいた。夢の人間に恋をした人間は朝目が覚める度に絶望し、眠るために起きる生活は次第に精神を蝕み、やがて自殺してしまう。もしくは夢の人間に殺されるのを現実と錯覚して本当に死んでしまう、とか。あまりハッピーエンドにならない話が10編綴られていた。その中でも僕は、「夢の中で出てきた女が現実の女を殺す」という話が非常に印象深かった。夢の女は現実の人間を殺すために出てくる、といった内容だった。僕の今朝の夢が現実になるとしたら……。

チャイムが鳴って僕はそこで3限が終わったことを知る。「夢幻十相」をトートバッグにしまって、そのまま図書室に返却したあと正門に向かった。途中、喫煙所で一本のマルボロを吸って、自販機で買ったコーヒーの残りを持って僕は駅へ向かう。
「なんでコーヒー飲んでるのよ、今からカフェ行こうと思っていたのに」
いかにも不機嫌そうな大崎はそう言った。
「そこ煙草吸える?」
「吸わせないし」
強気な大崎は僕の袖を引っ張った。

 駅から程なくしてそれはあった。“喫茶アプリコット”。かなり年季の入った店構えと、それに劣らないオーナーのいる所謂純喫茶だった。駅のホームから見えたことはあったけれど、実際に入ったことはなかった。店内は何年も使われてきたようなアンティーク家具に囲まれており、そこに流れるのは80年代や90年代の耳馴染みのあるジャズだ。この空間だけ昭和に切り取られたような錯覚を覚えた。
「随分と洒落ているね、よく来るの?」
僕は大崎に聞くと
「大学入りたての時に一人で入ってからお気に入りで週に1回は来るよ」
確かにこの僕が今座っている革張りのソファは長居してしまいそうなくらい居心地がよかった。ワインレッドの革が貼られた、猫足が特徴的なこのソファは僕をしっかりと包んでくれた。それに飴色になるまで使い込まれたテーブルは角が丸くなるまで磨かれており、奥のキッチンからは炒ったコーヒー豆の香りも漂ってくる。店内の中央にある大黒柱は煙草の煤か何かで黒くなり、所々に見える傷もまるでこの店の歴史を感じさせるような皺に見えた。すべてが長い時間をかけて洗練されていっているかんじがした。うまく言えないけれど、僕よりも長生きで、僕よりも多くのものを見てきた彼らに囲まれているここは、少しの緊張感と、同時に守られているかんじがした。

ツイード生地で仕立てられたダブルのジャケットを羽織った初老の男性がカップを二つ持ってきてくれた。僕はアイスコーヒーで、大崎はアプリコットブレンドを頼んでいた。早速グラスにガムシロップを入れる僕を、大崎は不思議そうに見つめる。 
「甘党なんだ」
彼女の瞳はどこまでも深い。
「なんだか意外」
そう言って大崎は肩をすくめながら何も入れていないコーヒーを一口啜った。一体どんな風に受け取ればよかったのかわからなかったが、僕はうん、と頷いてストローを刺す。若干の静寂をジャズのベースが叩いた。大崎はカップを静かに置いてこう訊いた。
「コーヒーはすき?」
僕はアイスコーヒーに刺さったストローで氷を鳴らしながら答える。
「うん、好きだよ。小学生の頃から飲んでるから癖みたいなものになっちゃってるけど」
「癖?」
からんと一際大きな音で氷が鳴った。僕は結露して濡れているグラスを指で撫でながら
「癖というよりか、ひょっとしたら寝たくないだけなのかも」
寝たくない、叶うならばそうしたい。今目の前にいる大崎もあのまま今朝の夢を見続けていたらどうなっていたのだろう。夢の女になにをされたのだろう。あれは夢だ、と自分に言い聞かせようとする度に、トラウマじみた動悸が僕を襲い、あの公園の光景がフラッシュバックする。
「前は家帰ったら寝てるって答えてたじゃん」
大崎は笑いながら立て続けにこう訊いた。
「怖い夢でもよく見るの?」
指先で涙を拭う大崎を見ながら僕は答える。
「うーん、まあ昔からなんだけど、怖い夢はよく見るな」
最近だと、僕はそう言いかけてから一度氷が解けて薄くなったコーヒーを飲んで
「君が殺される夢とかね」
と言った。それを訊いた大崎はいたずらに微笑みかけ、
「さみしかった?」
と僕を茶化すのだった。
「寂しくなんかないよ。ただ」
「ただ?」
「ヒーローがいなくなってしまった日常になるのかって落胆した」
「え! 私が? ヒーロー?」
うん、僕が頷くと大崎は大笑いした。大崎は痙攣するお腹を押さえながら
「なんで私がヒーローなのよ」
「なんでも」
僕はただ目の前にある大黒柱の傷の数を数えていた。

僕がお手洗いから戻るとちょうど大崎が財布をバッグにしまっていた。
お会計、僕が呟くと大崎は
「いいの。この間のお礼。教科書教えてくれたでしょ」
いやそうはいかないとお札を渡しても受け取ってくれなかった。頑固な人だった。
「結構長居したね。行こっか」
僕は渋々お札を財布にしまい、トートバッグを肩にかけ直した。

 “喫茶アプリコット”を後にして僕らは帰路に就く。すっかり日も落ちて、街灯が照らす歩道のタイル地を並んで歩く。昨日大崎はラーメンを食べる夢を見たと言う。信じられないくらいおいしくてまた食べたいと言う。僕は夢なら毎日違うのが見たいな、と言った。大崎は幸せな夢なら毎日でもいいなあ、なんて言った。二人で歩きながら僕はふと大崎が隣を歩いてくれることを嬉しく思った。それは本当に不意で、何か思惑があったとか何かきっかけがあってとかではなく、本当に突然そう思った。自然と僕の視線は大前に向いて、それに気付かれた。
「どうかした?」
大崎の揺れるピアスと黒目がちの瞳が僕に向けられていることに僕はうれしく思う。
「いや、なんでも」
「なんだ。変な人」
大崎は特に気にしている風もなくまた前を向く。

いつもの公園の前の十字路の坂を上った先にある最初の角を曲がったところに大崎の住むアパートがある。辺りは既に暗くなっていて、僕はこんな時間まで付き合わせてしまったからおくるよ、と言うと
「この坂登れるならね」
と大崎はほくそ笑んだ。
この坂はいつものベンチから眺めてる分にはどこにでもありそうな坂なのだが、いざ自分が登ると信じられないくらいに急勾配だった。大崎はここを毎日通っているのか、と思うと不思議でしょうがなかった。
「高校の頃は陸上部だったんだ」
坂を登った先で待っている大崎は涼しい顔で小ばかにしてくる。喫煙と運動不足とで弱ってしまった肺をぜえぜえ鳴らしながら必死に食らいつこうとするも、大崎との距離は縮まどころか開いてしまっていく。見かねた大崎は僕の手を引いて一緒に坂を登る。大崎の手も、僕の手も、自分でわかってしまうくらい熱くなっていた。

最初の角まで来る。まさかここに来るまでに情けないくらい自分の肺が悲鳴を上げるほど衰えていたなんて思いもしなかった。早く帰ろう、そう思った時だった。
「あたしの家この先なんだ」
そういう大崎はいたずら好きの子供みたいににやりとしていた。角を曲がった先に
広がるのはなだらかに続く住宅街と緩やかな坂だった。
大崎の家は4階建ての比較的新しいアパートだった。ここの4階と彼女は言う。僕は額を滴る汗を拭いながら
「じゃあ」
短く手を振った。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
途中振り向くと遠くにいる大崎は嬉しそうに小さく手を振った。僕はそれを確認して歩幅が狭くなった気がした。それも気のせいだと片づけた。

 必死に登った坂道も帰りは足首が痛みそうなくらい急に感じて、できるだけゆっくり下る。信号も、横断歩道も、赤や青に変わるたびに表情を変化させる。それを浴びながら僕はいつもの公園のいつものベンチに座る。マルボロを取り出して火をつけるルーティンも今日はなんだか特別な気がした。今朝は目の前に大崎がいて、その後ろに立っている夢の女は包丁を持っていて。大崎は殺されてしまうんじゃないかと悩んだっけ。今思えば自分の馬鹿馬鹿しさに笑えてくる。どうしてあんなことに本気になってしまっていたのだろう。公園の真ん中に立つ街灯に蛾が群がり、僕はそれを吐き出す煙で消そうとするけれど、頬を撫でる生温い風がそれをどこかに運んでいく。僕はそれを何回も繰り返すけど、煙草が短くなるだけでそれ以上もそれ以下もなかった。遠くから電車が近づく音が聞こえる。街灯の先にフェンスがあり、そこに線路が敷かれている。このままぼんやりと眺めているここにそれは流れてくるだろう。煙を吸って、吐いて。どんどん近付いてくる電車は、今、僕の視界を遮る。車窓から漏れる光が僕をちかちかと照らし、まばらな乗客は皆なんだか暗そうな顔をしていた。

その中に見えたんだ。夢の女が。

電車が過ぎ去り、あたりが静寂に包まれた時、自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。咥えた煙草もいつの間にか地面に落ちていて、汗と吐き気がどこからか湧き出してくる。気持ち悪い。
「うう……」
何かの間違いだと思った。見間違い、幻。僕はそこから逃げるように公園を後にした。帰り道の途中で嘔吐してしまう。まるで後をつけられているような気がする。僕はあまりの恐怖で膝が震え、動悸が止まらなくなる。一体僕は誰の足で歩いているんだろう。混乱している自分に混乱し始める。引きずる足はどこまでも重く、自室のアパートの2階に上がるまでにどれだけの時間がかかったのか。遠くの闇の中から夢の女がこちらを見ている気がした。
部屋に入り、カギとチェーンをかける。その場で僕は倒れこみ、携帯を取り出して大崎美穂の名前を探す。メッセージが入っていた。
“今日は楽しかったよ! また行こうね”
それを見て僕はこみ上げる吐き気と、助けを求める声を同時に飲み込んだ。涙をこらえるには僕はまだ幼すぎた。

布団にもぐると様々な音が僕に向けられている気がする。電車の走る音、夜に鳴く虫、人の笑い声。それらを気にしないようにする度に公園での出来事が浮かんできて、眠ると帰ってこられない気がした。直感的にあの女が僕に向けるのは愛情から憎悪に変わっているのを肌で感じた。今眠ってしまったら、本当に夢と現実との区別がつかなくなる気がする。どうすればいい。僕は、眠るのが怖い。

第4章 さよなら

 気が付いたら朝になっていた。カーテンから差し込む朝日は僕を優しく起こした。どうやら眠っていたらしい。夢を見なかった日は久々な気がする。ベッドから降りると机の上に置かれた様々な酒の空き缶が目に付く。僕は昨日これだけの酒を飲んで死んだように眠っていたのか。携帯で時刻を確認すると1限の時刻をとっくに過ぎてしまっていた。大崎からもメッセージがきていた。
“1限休んでいるけど平気?”
僕はそれに寝坊してしまった、と返信すると
“なんだ~無駄に心配した。今日学校来るよね、食堂のカフェで待ってるから”
笑った猫のスタンプとともに返信が来た。軋むような頭の痛みの中でも、大崎は僕に安心感を与えてくれる。いやな汗と涙とで濡れたTシャツを脱いで僕は冷たいシャワーを浴びた。前髪から垂れていく冷たい水を眺めながら僕は誰を想うのだろう。

 昼前に食堂棟のカフェに着くと大崎はすぐに僕を見つけて手を振る。僕はそれに小さく返して大崎の前に座る。
「おまたせ」
そういう僕に大崎は
「ううん、あたしも今来たところ」
 二人で昼食をとって様々な話をした。僕はホットドッグを、大崎はミートソーススパゲッティを食べていた。今日のホットドッグはやけに味が濃かった。きっと、上にかかっているチリソースが濃いのだと思う。それに対しておいしそうに食べる大崎を僕はうらやましく思えた。明るめの茶髪を耳にかけてから食べる彼女はまるで僕にピアスを見せつけるように、しかしどこか上品に麺を啜っていた。僕はそれを眺めながら、一緒に注文したアイスコーヒーを一口飲む。大崎は口に入れたものを飲み込んでから僕に色々な話をしてくれた。同じ学部の女の子に最近彼氏ができたこと、友達と今度テーマパークに行くこと、家の近くの神社の桜がきれいだったこと。僕にとってはどれもたわいも無い話だったが、夢の女を忘れられる貴重な時間だった。時計を確認するともう次の講義が始まろうとしていた。片付けを進める僕に大崎は
「今日一緒に帰ろうよ、正門前で待ってる」
僕はわかった、と次の学部棟に向かった。

 大崎と過ごす時間が長くなるにつれて夢の女のことを考える時間は短くなっていった。大崎は僕に現実を与えてくれた。講義の最中も僕は今までとは違い、ちゃんとノートをとれるようになったし、定期的に出されるレポートの点数も着実に上がっていった。いつも隣にいるはずの大崎がいない長机は普段よりも大きく感じるようにもなった。

 ポールスミスのトートバッグに荷物をまとめて僕は飲みかけの缶コーヒーを携えて正門に向かう。途中、喫煙所に寄ってマルボロに火をつけた。苔の生えかかる柱を背にして噴水を見ると、そこに大崎の姿が見えた。暖かい陽気の中で、正門まで続く木々を背景にして噴水の淵に座る大崎は僕が思っているよりもずっと細く、風になびく彼女のTシャツはそれを主張していた。それでいて元陸上部とは想像がつかないほど色は白く、携帯を眺める彼女の表情は瞳は細かい水飛沫の中でもしっかりと輝きを孕んでいた。それを隠すように垂れる髪の、その間から露になった耳は昨日とは違うピアスがあることに僕は気付く。吸いかけの煙草を消して、少しだけ残った缶コーヒーを飲み切る。噴水へと向かう足取りは軽かった。
 僕を見つけた大崎はすぐに笑顔になってイヤフォンを外しながら
「もう、また煙草吸ったでしょ」
僕はうん、と答えてそれに不満そうな彼女の顔をみて笑った。

 僕と大崎のいつもの帰り道はたわいもない話をして過ぎ去っていく。今はほとんど散ってしまった桜も、几帳面に並べられた歩道のタイルも、段々と夏の暑さを増していく陽気も、何でもないような日々が大崎と過ごしていくとすべてが生き生きとしているように見えた。天文サークルの先輩が面白いという。今年は海と、水族館と、プラネタリウムに行きたいという。
「僕でよければ」
大崎は笑ってくれた。

公園前の十字路に差し掛かった時に
「今日はあたしが送ってあげるよ」
遠慮するが大崎は引かないので僕は素直に甘えることにした。僕はそれと
「その前に煙草吸ってもいい?」
不満そうな大崎は渋々首を縦に振った。

 いつものベンチでいつもの煙草を吸う。吐き出す煙は孤独に立っている街灯を隠すように、あの日の夢をかき消していくように消えていく。隣には大崎が座っていて、通り過ぎる電車にあの女はいない。僕たちは現実に生きていて、僕は今まで夢を見ていた。そんな当たり前なことが、僕にとっては特別に思えた。今でもこのベンチに座って、レールを軋ませる音がすると動悸がする。あの女がいるんじゃないかと思う。どこからか僕のことをじっと見ていて、いつもその右手には包丁を握っているように思える。それを想像するたびに大崎のことを心配し、その度に馬鹿馬鹿しくなった。しかし、そう思うたびに悲しくなるのも僕だった。
「そろそろ帰ろうか」
吸い終わったタバコを携帯灰皿に入れて僕はそう言った。大崎はうん、と短く頷いて僕たちは公園を後にした。
「夕飯作ってあげようか?」
彼女はいつも不意だった。そして、どこかいたずらを企む子供のようでもあった。

 僕と大崎は駅前のスーパーに立ち寄った。色とりどりの野菜や、ピンク色に輝く肉を横目に大崎は携帯と睨めっこをしていた。
「ニンジンと、ジャガイモと…」
大崎は左手に携帯を持ったまま呟いた野菜を僕が持つカゴにぽいぽいと入れていった。クリームシチューを作ってくれるらしい。 
「牛乳はうちにあるよ」
牛乳パックを取りかけている彼女を制止するように僕は言った。

 会計を済ませて二人帰路に就く。僕は野菜や飲み物が入っている袋。大崎はお菓子を入れた袋を持っていた。食べ終わったらお酒を飲む気らしい。僕が特に止めることもしなかったので、飲み物やお菓子がクリームシチューの材料よりも多くなった。空を見上げると星が綺麗に輝いていた。
「東京でもこんなに星が見えるだなんて知らなかったなあ」
遠くに見えるオリオン座を眺めながら彼女は言った。
「最近だとベテルギウスが減光しているらしいよ。近いうちに無くなっちゃうかもね」
そういうと大崎はひどく驚いた。しばらく彼女なりに考えて、「でも」と続けた。
「今まさにベテルギウスが無くなっていても、地球がにいる私たちに確認できるのはそれのずっと後ってことだよね。なんだか不思議」
僕は宇宙のスケールの大きい話は苦手だった。
「今、本当はないけれど、私たちにはその光が確かに見えているんだもの。本当は存在しないのに、私たちには見えている。見えているだけでそれを信じてしまうんだから人間って面白いよ」
静かにくっくっと大崎は笑った。決まった……。と達成感に浸っている彼女は、あまり深く考えてこれを言ったわけではないだろうが、僕には応えた。実際には存在してさえいないのに、信じてしまう人間の”面白さ”によって苦しめられているのは紛れもなく僕だった。ただ
「僕もそう思うよ」
こう言うことが精一杯だった。

 駅前のスーパーから5分ほど歩くと僕のアパートが見える。木造で、築年数も経ってはいるが、入居する前にリノベーションされていて、周りの一軒家と比べるのと見た目から小綺麗になっていた。階段を上がって自室の206号室にトートバックから出した鍵を挿し込む。大崎は物珍しそうに辺りをキョロキョロとしていた。鍵を回すと解錠された音がした。ドアを開くと最初に1口コンロのキッチンが左手にあり、正対してユニットバスへと続く扉がある。しかし今は明かりも点いておらず、そのどれもが確認できないでいた。

 僕と大崎はお互いの手に提げたレジ袋を玄関に着くと同時に落とすように置いた。中には酒や、菓子といったものが多く入っていたが、置いた拍子に割れてしまう心配よりももっと近くでもっと大事なものにお互いの意識は向かっていた。大崎の黒目がちの大きな目とまだあどけなさの残る少しのソバカス、そして薄くも色のついた唇。そのどれもが今までどの瞬間よりも近くにあることに気がついたからだ。僕はほとんど意識しないで大崎と唇を重ねた。軽く、そして長く。吐息が僕の頬にかかる。そしてそれと同時に僕の中で渦巻いていた、吐き出してしまいたい感情が喉のすぐそこにまであることを確かめた。ゴクリ、それを押し込むように唾を飲んだ。音が大崎に届いたかどうかはわからない。そして空っぽになった口内は自然と大崎で埋まった。唇の柔らかさと歯の硬さとぬめった舌と、大崎の味と香り。僕たちは静かに目を瞑る。呼吸が、体温が、大崎の全てを感じて自然と昂ぶる自分に抗えずにいると。
「ねえ」
そう弱々しく呟く大崎の目はいつも以上に潤んでいた。大崎は履いていた靴を足を振って脱いだ。ぱたんとスニーカーの落ちる音が聞こえた。大崎は僕の首へとその白く細い腕を回し、僕はそれに応えるように二の腕に軽くキスをする。そのまま僕は大崎を抱えるように腰へ腕を回す。大崎の腰は洋服の上からでも十分に分かるくらいに簡単に壊れてしまいそうなほど薄かった。僕はそのまま部屋のドアを開け、月光に照らされたベッドに倒れ込む。今朝起きてそのままのベッドだったが、僕は冷静でいられなかった。僕は仰向けになっている彼女に馬乗りになり、もう一度唇を重ねる。白いシャツのボタンを一つずつ外していると
「するの?」
彼女から出た何かに怯えているようにも聞こえた。でも、僕はその質問に答えることはなかった。

 すっかりぬるくなった酒缶をベッドに並んで座りながら二人で飲んだ。大崎は下戸らしく、一缶の半分も飲まないうちに随分と顔と首元が赤くなった。するとタオルケットに包まった彼女は僕の肩にもたれてくる。
「なんか、ここ安心する」
暗闇の中、深夜の通販番組に照らされながら大崎は言う。
「僕のでよかったらどうぞ」
「やっぱり優しいんだね」
僕は酒缶をガラステーブルの上に置いてベッドにゆっくり倒れる。
「なに? 照れてんの?」
大崎も持っていた缶をテーブルに置いてにやにやしながら僕に馬乗りになる。するとちょうど乗られている僕の臍の下あたりがなんだか湿っている気がした。
「まだ濡れてんだ?」
僕がそう聞くと恥ずかしそうに
「うるさいな」
「なに? 照れてんの?」
その時の僕は多分いたずらを企む子供のような表情をしていたと思う。

 大崎は僕の全てを受け入れてくれたし、僕も大崎の全てを受け入れようと思えた。それは自然なことで、お互いにそれを求めて、お互いにそれの与え方を知っていた。僕が求めることで、線の細い大崎を傷つけてしまうんじゃないかと思うのは彼女が僕の腕の中で寝息を立ててからだった。僕は眠る大崎にキスをする。すると大崎は鼻を掻く。それを見て僕は笑ってしまい、大崎は何事かと起きてしまう。そんな夜。この時間が永遠に続くと僕は本気でそう思っていた。

 朝、目が覚めると大崎が下着を探していた。
「ねえ、どこやったの」
あった、と次にはそう呟いて白い下着に腕を通した。カーテンから漏れる陽光が大崎の茶髪を透かして、一本一本がキラキラして見えた。彼女は背中のホックをはめながら
「なに見てんの」
少し不機嫌そうにそう言った。僕はまだ夢から覚めていないように思えたし、この夢だったら毎日見てもいいかなと思えた。少なくとも今までの夢よりはこの景色の方が僕にとっては美しく思える。

 大崎は身支度を整えると今日は午後から予定があるらしく帰ると言う。僕は送るよ、と声をかけたのだけれど家が割とすぐそこだからと言って断られた。玄関でスニーカーの紐を結ぶ彼女を僕は上から見下ろしていると
「ん」
大崎は目を瞑って唇を尖らせた。僕はそれに大崎の輪郭と首とを両手でなぞりながらキスをした。長いことしたと思う。幾度もしたこのキスも、一回一回が特別に思えた。離れたのは大崎からだった。満足そうな表情で
「バイバイ」
と短く言って出て行ってしまった。部屋に戻り、ベッドを見ると枕元に細い茶髪が落ちている。僕はそれを眺めながら昨日のことを思い出す。僕は昨日ここで大崎美穂とセックスをした。汗と体液で湿っているシーツも、机の下に落ちている昨日着ていたシャツも、その事実を裏付けるかのように存在を主張していた。僕はそのままシャワーを浴びる。今までの夢とあの女を洗い流すようにゆっくりと時間をかけてシャワーを浴びた。日差しはすでに真上ほどに上がっていた。

 その日は自分のために1日を使った。今まで読もうとして積んであっただけの本を片っ端から読む。濡れたままの髪で窓辺に座りながらページをめくる。シュードマンの「lips」だ。日差しの色が変わったことで僕は時間が経ったことを知る。あれから3時間も経っていた。昨日大崎と買った食材を使ってサンドウィッチを作って僕は窓辺に座りながらそれを齧る。渇く口内を熱いコーヒーで流し込む。僕の窓から見えるのは駐車場しかなかったけれど、その先の道路を行き交う人々を眺めているのは僕は一人でないことを示してくれていた。僕は一人ではない。それをもう一度強く感じた。

「ねえ、あの女は誰なの?」
僕は真っ黒の長い髪をした女に頰を撫でられながらそう問われた。
「大崎美穂、というんだ。同じ大学の友達なんだ」
「へえ」
僕は女の声を初めて聞いたかもしれない。僕の頬を撫でるその人はゆっくりと手を離して、遠くの真白の霞の中のどこかに消えて行く。僕はそれを見送る。もう、追わない。僕が望むのはそれだけだったし、それ以上もし願ってしまうのは僕はまた孤独になってしまうとふとその時感じたからだった。

第5章 再会


 目が覚めたのは午後10時を過ぎたあたりだった。もう月が昇り、カーテンの間から部屋を淡く照らす。眠ってしまっていたらしい。家具の輪郭が、シーツの陰影が、そして読みかけのまま閉じてしまった本までもが静かに息を潜めている。ぼくは部屋の明かりを点けて携帯を手繰る。大崎からメッセージが入っていた。
”昨日はありがと! シチュー作れなくてごめんね”
きっとそれは大多数の人にとってはごく当たり前の日常なのかもしれないけれど僕にとってはひどく新鮮でそれだけで世界が光り輝いているように見えた。

 次の日曜日も似たような過ごし方をした。本を読み、サンドイッチを食べ、そしてコーヒーを飲む。昨日よりも天気が良かったので公園まで散歩して煙草を吸う。向こうの角から大崎が出てくるような気がしてチラチラと見るけれど、結局3本吸う間に彼女が現れることはなかった。吸い殻を携帯灰皿に入れて僕は公園を後にする。後ろの方から電車がレールを軋ませる音がするが、僕はもう振り返らない。もう、その車窓を見ることはない。
”明日は遅刻しないように”
大崎からのメッセージを読むのは僕にとっては日課であり義務であり楽しみでもあった。僕はそれに返信するのも楽しみであり義務であり日課だった。僕は何度もそれの返事を考えて、書いては消してを繰り返して、結局満足いく返答が用意できたのは家についてからの話だった。どうして僕の中で大崎の存在というのはここまで大きくなってしまったのか。僕はまだ日の差し込む部屋で一人、ベッドに横たわりながらその携帯を眺めていた。ただぼうっとメッセージを眺めているだけなのに、大崎の香りがしてくる気がした。あのベッドの上で、僕はあの大崎とメッセージのやり取りをしている。日が落ち始めて、部屋が次第に暗くなる。僕はだんだんと孤独を感じ、このベッドに一人でいることを実感する。

 それからというのは特に代わり映えのない、日常という名にも名前負けしてしまいそうなくらい、決まった時間に決まった講義を受けて、合間には大崎と会い、ご飯を食べたり、綺麗なものを眺めたり、時にはお互いの家でセックスをした。時間の浪費、という名前の方が似合いそうなくらいの何も変わらないただの人生の消化試合とも思える時間に、僕は退屈どころか幸せを日毎に増して感じるようになっていった。その幸せは誰かからすれば当たり前そのもののようだが、今までの僕からしてみればとても新鮮だったし、真新しいものの連続だった。しかし、終焉は突然に訪れた。それは不可逆性の本当の終わりだった。

 夏の存在を強く感じるようになった頃、だんだんと太陽がいつまでも居座るようになったある日、大崎が大学にあまり顔を出さなくなった。これだけならいいが、あれから毎日していた連絡も絶え絶えに、挙げ句の果てにはほとんど来なくなった。僕はいよいよ心配になり、様子を見に行くことにした。

 その日の講義は午前中で終了し、帰りにコンビニでスポーツドリンクとみかんのフルーツゼリーを購入して大崎のアパートまでお見舞いに行った。いつぶりかに登ったこの坂も、あの日ほど辛くはなくなっていた。大崎の部屋の匂いや、家具の配置までもを簡単に思い返せるほど僕は何度もこのアパートに通った。4階まで上り、インターホンを押す。
「美穂?」

しばらくしてがちゃりと鍵が開く音が聞こえた。古いドアの隙間から出てきたのは無理して笑って見せる痩せた大崎と、高熱だった。

 大崎が点滴を打っている間、僕は喉の渇きを感じて1階の待合室にある自販機でジュースを買うことにした。眠った大崎を確認して部屋から出て階段を降りる。途中すれ違う看護師からは消毒液の匂いがした。僕は昔から病院が苦手だった。どこまでも清潔で無機質で、無駄なものが全く無い病院は、人々の不安を浮き彫りにしているように思えてならないのだ。フロントまで来ると待合室には何人かの患者がいた。皆何かを抱えている。当たり前のことだけれど、それを目の当たりにするのは少しこころが痛かった。

自販機を前にして僕は少し悩んでいた。きっと大崎はレモネードが好きなのだと思う。がらん、と小さなペットボトルが2つ転がり落ちてきて僕はそれを拾う。すると、休憩室を出たすぐを見覚えのある黒い髪をした女性が通った気がした。見間違いだろう、僕はそう自分に言い聞かせた。そう思う頭とは裏腹に足は自然と前に出ていて、そして目はその女を追っていた。あの公園のベンチで見た光景を思い出す。夢で見た光景を思い出す。電車の車窓から僕を見るあの女の顔を思い出す。初めて夢で会った時の流れ込んでくるような温かさを思い出す。僕の体は枯渇していて、無尽蔵に求めていて、足が早くなるのは自然だった。

 休憩室を出て待合室を見渡しても女はいなかった。誰もが不安そうに、何かを抱えている人たちばかりで、僕を誘ってくる漆黒の髪を持つ女はどこにもいなかった。
「(見間違いか)」
肩を落とした。しかし、まだ諦めきれない自分がいた。もしいるのなら。でも会って僕は何がしたいのだろう。階段にも、廊下にも女はいなかった。これで良かったんだと無理矢理自分を納得させようとした時に、大崎の部屋に続く廊下の曲がり角に黒い髪の先が見えた。気がした。僕はそれを追う。途中看護師にぶつかりそうになりながらも、夢に見ていたあの女がまた消えてしまう前にもう一度だけ会いたかった。後ろから看護師が何か怒鳴っている。それに気付いたのは角に差し掛かってその先に誰もいないことを見た後のことだった。あがる息とぬるくなってしまいそうなくらい握りしめた2つのレモネード。
「院内は走らないでください」
隣にはいつの間にか怪訝そうな目をした看護師がいた。僕はそれに驚いて
「すみません」
ほとんど反射のように謝る。その若い看護師はすぐにどこか行ってしまった。残された僕の生きる世界に、あの女はいないんだ。

 大崎の寝ているベッドのカーテンを開ける。彼女は寝息を立てて、全くの安心を存分に堪能していた。カーテンを締め直してレモネードの蓋を開ける。ぱきぱき、とプラスチックの弾ける音が室内に響いた。この音で大崎が起きてしまうんじゃないか、と思うくらいにここは静かだ。ゆっくりと上下する大崎の胸を見ながら僕はレモネードを一口飲む。普段からどこか子供のような、あどけない表情をする大崎も眠っているともっと幼く見えた。夕焼けのオレンジが照らす半開きになった口から見える白い歯も、カールした長い睫毛までもが触れると弾けてしまいそうなガラス細工のように思えた。夢のように消えてしまうような気がした。その時、ふと部屋のドアが開く音がカーテン越しから聞こえる。看護師が様子を見にきたのだと思い、大崎を起こそうかと思った時、その足音はピンヒールのような、高い音を響かせる足だと気づく。それは一番奥にある僕たちのベッドに向かってくる。大崎の知り合いか、と思い顔を上げた瞬間、僕が見たのはカーテン越しから透ける長い髪の女だった。

 息が止まる。汗と心臓の鼓動が僕を不安へと突き落とす。猛烈な吐き気と、異常なまでの寒気は嘘がバレた時の子供のように、蜘蛛に捕まった蝶のように、そして感じてはならない罪悪感に一瞬にして支配された。カーテン越しの女はただずっと、僕たちの方を睨み続けている。その目すら見えないが、それは全くの常人には出せない確実な殺意醸し出していた。時間にしてどれくらいたったのか。永遠とも感じられるような睨み合いはもう一度響くドアの開く音で幕を閉じた。

また誰かが大部屋に入ってきた
「大崎さん、点滴終わりましたよ」
長い髪の女の影が次の陰に塗りつぶされ、カーテンを開く、しゃっという音ともにそこには点滴の様子を見にきた看護師だった。
「どうかしました?」
気持ちの悪い粘つく汗をかく僕を見てその人は言った。
「いや、なんでも」
看護師からの視線を感じる。しかし、今の僕にはこの動悸が他の人に悟られないようにすることが精一杯だった。温くなったレモネードを握る手は小さく震えていた。
 看護師が手際よく点滴用の注射を外して、しばらくすると大崎は目を覚ました。
「あ、おはよう」
すっかり日が落ちてしまって薄暗い室内で大崎はそう言った。
「かえろっか」
僕は小さくそう言った。
「ねえ、どうしたの」
大崎は自分の手を握る僕を見て笑いながらそう言った。僕は震えを止めることができない。僕を握る大崎の小さな手は温かかった。

 大崎の家に向かうまで彼女は僕の手を握り続けた。まるで何かを願うように絡められた指の間に溜まる汗を不快に思う。けれど僕にはその手を離すことができなかった。何度も繋いだこの手の温もりが初めてのように感じられて、一度離してしまえばもう二度と握ることのできないものだと思えたからだった。僕たちはゆっくりと坂を登る。それはとてもゆっくりと坂を登る。その間僕たちはほとんど口をきかなかった。今日、僕は起こったことをそのまま伝えようと思う。しかし、それと同時に大崎に余計な心配をかけたくもなかった。第一、夢の女が現実に現れるようになったなんて聞いた人間はどんな顔をするのだろう。本当に精神病か何かを患ってしまった気がして、こんな僕を大崎はなんて思うのだろう。離れてしまうのか、それとも寄り添ってくれるのか、どちらにせよ想像できる未来を僕は望まない。そうなると喋らない方がいい気がしてくる。僕の頭の中で堂々巡りしているこれを吐き出す場所は大崎ではないとわかっていても、未だに震える体を止めることはできなかった。
「ありがと」
アパートの前で彼女はそう言った。
「じゃあ、僕は帰るよ」
僕が踵を返そうとした時に
「あ、そういえばこの間友達から紅茶もらったんだ! ダメになる前にちょっと飲んだいきなよ、今日はちょっと冷えてるし」
熱帯夜が騒がれる昨今は、冷えるという表現を使うにはまだ早かった。
「そうだね」

 僕は紅茶を淹れている大崎を眺めながら、日常というのはいとも簡単に壊れてしまうことを実感した。今座っているソファからベッドを挟んで向こうにあるカーテンの隙間や、少しだけ開いているクローゼットの間から。もしくはひょっとするとベッドの下からは手が出てくるかもしれない。実は玄関の向こうには僕が出でくるのを待っている。夢の女。女。黒い髪をした美しい女。恐ろしい。どこまでもついて回り、どこまでも僕の脳を圧迫する女。その女はーーーーーー。

「今日、何かあった?」
かちゃん、花柄のティーカップを僕の前に置く大崎はそう切り出した。膝を抱えた僕はハッとして顔を上げる。そしてゆっくりと全て話した。今までのことと、今日起きたこと。これまでのこと、そしてこれからのこと。
「そっかあ」
僕の今までを聞いて彼女が言ったのはその一言だった。てっきり僕は心配されたり激励されるとばかり思っていただけに呆気に取られてしまった。
「呪われちゃってるのかもね!」
彼女はこういう人間だった。とても解決できそうもない問題を目の当たりにした時に決まってする笑顔。その屈託のない笑顔は自分自身をの一切を殺して、それでもし誰かが1mmでも救われるのならそれでいいと思える人間の笑顔だった。強く、美しい人間の女だった。きっと彼女なりの心配であり、激励であったのだろう。この時にやっと僕は頰に流れる涙に気がついた。
「もう、男の子なんだから泣かないの」
彼女はその白く細い指でそれを拭う。
「……ごめん」
「また泣くのか!」
大崎は静かに僕を抱き締めた。きつく、そして優しく抱き締めた。そして僕は彼女の胸の中で声をあげて泣いた。いつぶりだろう。僕の嗚咽は彼女の胸の中に吸い込まれていって、彼女の背中にすがるように抱き返した。大崎は僕を抱きしめながら頭を撫でて耳元でこう囁く。
「いつでもいいからね、もし辛いことや逃げ出したいことがあったらいつでも抱きしめるから。私がいつでも広瀬くんを抱きしめるから。だから自分の中に閉じ込めないで。閉じ込めたものが自分を殺す前に」
僕はその声を自分の嗚咽でほとんど聞こえてなかった。だけれど、自分の居場所がこんなにも柔らかくて温かいものだと知った時、流れる涙は意味を変えた。

 どこか遠くで鈴虫が鳴いているのが聞こえる。その声は小さくても1つのベッドで寝ている二人に届かせるには十分だった。月明かりがカーテンの間から漏れて部屋の中を群青に染める。僕は闇に飲まれかけている家具を眺めながら大崎に後ろから手を回されていた。
「広瀬くんってなんかいい匂いするよね」
大崎が僕の隣で眠る前にいつもいう台詞だった。それをいった後は大体、
「ねえ」
耳元で小さくそう囁いて、大崎の手は後ろから僕の胸を這って、下着に手をかける。僕はその間もずっとテーブルの上にある飲みかけの紅茶の入ったティーカップを眺め続ける。すっかり慣れてしまったその手つきに僕の下着はあっさりと外されてしまう。なぞる指は冷たくて長くて細かった。その間も僕はずっと点いてもいないテレビを眺める。月明かりが反射している画面を眺める。横たわる僕と後ろから手を回す大崎を見る。

「ねえ」
大崎は僕の肩に手をかけて仰向けになるように転がした。その僕に大崎は跨って彼女の顔は月光による陰影で半分近く見えなかったけれどあの時と同じ目をしていた。そしてその顔は、僕が思い描いたカーテン越しの女の顔と同じだった。その陰影はうつむきがちに、自分の髪を持ってして一層の影に深みを足した。その黒は僕の両頬を手で撫ぜて唇を重ねる。僕は目を瞑る。どうして今日に限って夢の女の顔が浮かぶのだろう。長い時間のキスだった。一度離れれば一枚脱ぎ、二度離れれば、大崎の白い肢体は月光に晒された。どうしても、今日は夢の女が邪魔をする。なぜか大崎に重なる。夢の女が、まるでそのドアの向こうからこちらをじっと見ている気がした。
「ごめん」
僕はそう謝った。今日はできない、そうも続けた。
「少しだけ……」
大崎はそれをかき消すようにそう小さくいった。僕からゆっくりと下りて僕の下腹部に顔を埋めた。遠くで鳴いていた鈴虫の声はいつしか聞こえなくなって、この部屋を支配する音は僕を頬張る大崎の音だけだった。僕はーーーーーーー。

大崎が寝息を立てたのは終わってすぐだった。僕はもうほとんど覚えていないくらいになぜか朦朧としていて、なぜか終始あの夢の女が脳裏にこびりついたままだった。月明かりが作り出す陰影のせいで、大崎とあの女を重ねてしまった。僕はなんて最低な人間なのだろう。そう思うたびに、病院のカーテン越しにいたあの女がまたどこかで見ている気がした。
「……広瀬くん」
大崎がこちらに寝返ってきた。僕の目の前で眠る大崎の顔はどこまでもあどけなくて、汚れを知らない純粋そのもののように見えた。僕はその純粋さに憧れて、少しだけ分けてもらおうと大崎に近付いたんだった。
「好きだよ」
僕は自分に言い聞かせるためにそう呟いた。ふふ、と大崎は笑った。

次の日の朝に僕は大崎が目覚める前に部屋を出た。夢は長いこと見ていない。僕はベッドの下に潜り込んだ下着を引っ張り出して履く。朝の陽光はカーテンの隙間から身を捻り込んでくる。その一筋は大崎の頰と首と胸と臍と足を照らす。照り返す白い肌は僕が触れると黒く染まりそうで、その染まった部分から爛れていってしまいそうで、とにかく今の僕には自分の手がそういう風にしか見えなかった。大崎のことを大切に思っているが故に、今はただ距離が欲しかった。身なりを整えて、玄関のノブに手をかける。
「広瀬くん」
大崎の声が聞こえた気がした。僕は振り返らずドアを開けた。

 僕が最後に大崎の声を聞いたのはそれが最後になった。あの日からというもの大崎は大学に顔を見せなくなった。連絡もしなくなった。大崎の友人から大崎と連絡が取れないと相談されたこともあった。大崎と会わなくなってから不安や心配が募り、日を重ねるごとに凝り固まって後戻りできないくらいになった。いつもの十字路を通らないように電車通学にした。いつもの公園でタバコを吸わないように近くのコンビニに行くようになった。僕の望んだようになった。しかし、どこか満たされない自分もいた。僕が一体何を望んでいるのかなんて誰にもわからなかった。僕が一体何を望んで何が欲しいかなんて、実は最初から変わっていないようにも思えた。

第6章 別れ

 あの晩のことは忘れない。嵐の前の夜だった。立て付けの悪い窓がガタガタと鳴り、遠くでは雷が轟く。そんな夜だった。僕はウイスキーを舐めながらレーズンチョコレートを食べていた。大崎と連絡がつかなくなって1ヶ月が経とうとしていた。僕はあれからというもの、ただ大学へ行き、いつの日か大崎が長机の隣に舞い降りてくれるんじゃないかと思っていたけれど現れることはなかった。鼻腔を抜けるウイスキーの香りに支配されながら、鳴らない携帯を眺める。なぜか感じる喪失感からか涙が溢れそうになる。自分から手放したはずなのに、なぜが誰かに取り上げられてしまったような気がする。一体どうしたらいいのだろうか。この感情が苛立ちなのか悲しみなのか僕にはわからないままで時間はただただ過ぎていった。

 嵐が近くなる。窓を叩く雨粒が段々と大きくなるのを耳で感じる。すっかり氷が溶けて薄くなってしまったウイスキーと、触れれば手についてしまうくらい柔くなったレーズンチョコレートと、僕。瞬間、閉めたカーテンの隙間から閃光が走る。思わず目を瞑ってしまいそうなくらいだった。そう感じた次には部屋は闇に包まれた。停電。真っ暗な部屋で確かにあるのは握ったままの結露したグラスだった。僕はそれに入っている金色のウイスキーを口に含んでから空に問いた。
「僕はどうしたらいい」
それを聞いたかのように僕は後ろから誰かに抱きしめられた。花の匂い。絹のように細く月光のように白い腕が僕を包んだ。
「ねえ」
耳元でそう呟かれた。僕は不意に流れた涙を止めることができずに僕を抱く細い腕を撫でた。手首、肘。僕はその腕をゆっくりと下ろして振り向く。夢に見ていた女はそこにいた。
「会いたかったよ」
その言葉はどちらがいったかは覚えていない。聞いたような気もするし、言ったような気もする。その後には僕はその女とキスをしていた。軽く押すとその女は簡単に倒れ、長い髪がベッドに広がった。
「するの?」
僕を見つめるその黒い目はずっと変わらなかった。僕が憧れていた目だったのかもしれない。ずっと欲しかった目なのかもしれない。心を読んだかのように女は目を細めた。僕はそれを合図に女に覆いかぶさった。

 雷の轟音と、テレビからの話し声で目が覚めた。いつの間にか僕は眠っていたみたいだ。相変わらず窓を叩く雨粒は大きく、レーズンチョコレートは溶けてお互いにくっついてしまっていた。その隣に置いてある携帯を取る。そこには通話中の表示があった。最初こそは酔って誰かに電話をかけてしまったのだと思った。しかし、そこに書いてある通話相手の名前を見て僕は確信した。僕は2時間も前から大崎と通話していた。そしてそれは今も繋がっている。
「……美穂?」
応答はなかった。ただ、少しのノイズが聞こえるだけだった。嫌な予感がした。

 雨に打たれる僕がいた。玄関を飛び出して十字路まで走る。信号は赤、しかしそれを見る暇なんて僕にはなかった。後ろからクラクションを鳴らされた気がしたけれど、振り返らずに何度も通ったこの坂を登る。サンダルで登っていると、延々と続くような気さえした。雨で重くなった服も髪も全部、僕の罪そのものだったし、だとしたら今僕が夢中で走るのは償いとでも言うのか。それとも、本当に。

 拝啓、広瀬浩一様
 わたしが最初に広瀬君を見た時、なんて今にも壊れてしまいそうな人なんだろうと思いました。どこか繊細でいつも遠くを見つめる広瀬君がいつも何を感じて何を見ているのか気になって仕方がありませんでした。いつから広瀬くんを目で追うようになってしまっていたのだろう。気がついたら私はいつもぼうっと貴方のことを見ていたのです。実は教室に遅れてきた日はわざとでした。貴方はいつも遠い席に一人で座っているから、隣に座ってみたくなったのです。それで普段よりも少しだけ遅れて行ってみると、そこにはやっぱり外の遠くを見る貴方がいました。すごく緊張しましたが、あの時勇気を出して良かったです。それと、広瀬くんがあんなにも優しいだなんて思いませんでした。なんだか、大人しそうな人だなあとは思っていましたが、私が思っているよりもずっと貴方は優しくて、どんな時でも受け入れてくれました。ありがとう。貴方といる時は本当に安心し切ってしまっていて、人生で初めて本当の自分を出すことができたような気がしていました。でも一つだけ謝らせてください。私、ひとつだけ隠していたことがあります。広瀬くんから夢の女の話をされた時、私のせいだと思ったのです。
 ある日から夢の中でとある女性が出てくるようになりました。長い黒髪が綺麗な人でした。正直女のわたしでもうっとりしてしまうくらい綺麗な人だったので、その日はずっと夢心地だったことを今でも覚えています。また会えるかなあ、なんて思っていました。それから夜眠ると必ずあの綺麗な人が出てくるようになりました。毎日、綺麗な人に会えるのは嬉しいけれど、同じ夢を何度も見るのが次第に怖くなってきたのです。
 ある日、いつもみたく同じ夢を見ました。そして、その女の人と夢の中でセックスをしました。あまりにもリアルで、まるで自分が汚れてしまったみたいで、広瀬くんを無理やり誘いました。広瀬くんで上書きされてその日は少し落ち着きました。けれど、広瀬くんが帰った後、私は決まってあの女の人に汚されるのです。一人で眠ると決まってあの人とセックスをして、汚されてしまうのです。その度に私は上書きしようとしていました。だけれど気付いていたのです。広瀬くんは私に求められるのがあまり好きでないことに。ごめんなさい。本当に自分勝手だとわかっていたけれど、私にはああするしかなかったのです。もう二度と迷惑をかけたくなくて、眠らないようにわざとお腹を空かせたり、コーヒーをよく飲むようにしました。夢の女に会うと、貴方で埋めて欲しくなってしまうから。気が付いた時は病院でした。隣にいる広瀬くんを見て、ああ、また迷惑をかけてしまったな、と申し訳なくなりました。あの日のことは忘れません。最後まで手間のかかる女でごめんね。あの時、謝ろうとしたのだけれど、カーテン越しに夢の女の人が見えてしまった気がして、声も挙げることができずに眠っているふりをしました。弱虫でした。それからというもの夢の人が部屋の中にいるような気がして眠れなくなりました。カーテンの裏から、押入れの隙間から覗いてくる眼がある。そんな気がして。あの人のきれいな黒目がこっちをずっと見ていて。一度眠るとあの女の人とセックスをして、嫌なはずなのに起きたとき濡らしている自分にもっと嫌になって。広瀬くんと最後にセックスをした日から窓にはガムテープで新聞を貼り付けて光が入らないようにしました。もう眠っていても起きていても関係のない暗闇の中だと女の人に怯えなくて済むと思ったから。でもあの人は私の背中を優しく撫でるのです。起きているのか眠っているのかさえわからない今も、なんだか頭を撫でられている気がします。広瀬くん、私っておかしいよね。抱きしめてほしくて電話しました。結局最後まで広瀬くんの声は聞こえなかったけれど、なんだか楽になったよ。ありがとうね。今までありがとう。ごめんね。広瀬くん。

後日投函されていた手紙。差出人不明。

 午前2時、大崎は飛び降り自殺で死んだ。4階の自室の窓から飛んだようだった。救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。通報してくれたらしい中年の男性から聞いた。
「友達?」
僕は
「いえ、違います」
失礼しました、と。雨の音でほとんど彼には聞こえなかったと思う。
 僕はそっと携帯を取り出して通話を切った。
 僕はそれだけだった。

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