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そのひとことは、証跡のようで

もう、「自分でもどうしようもないくらいの衝動」なんてものを明確に見ることはほぼ、なくなった。

それを、そういう状態を
若き頃の自分は
「つまらない大人」だのと、呼んで、どこかしら蔑んでいたようにおもう。


「いいねぇ、若いって」

その、侮蔑をわずかににじませた幼い批判に、年長者たちはそう答えていた。
今ならわかる。

なんというベストアンサーなんだろう、と。


若かりし頃のあの侮蔑や軽蔑は
その、わずかなひとときにしか抱けない感情で
それがあるからこそ得られる経験もあり
そこを、下手にいじって燃え残したりしないためには

「いいねえ」って、ほんのり褒めたように、諦めや悲しみを滲ませていうことは
彼らの自尊心も、その思想をも汚さずに
目の前に舞い降りた小鳥と目があってもそのまま放置して飛び立つのを待つような
そんな、密やかなエールが、込められている様に思えてしまうのだ。


かつて通った黒歴史を思い返せば極めて容易にそんな顔できるわけだし。
いや、通った道だし、きみも大変だねえ、がんばれよーって。


確かに
自らを内から食い破ってくる様な衝動は、もうほとんど感じることは無くなった
けれど、実際はそれは、
確かに精彩をやエネルギーが乏しくなっているところもあるのだが
単にコントロールが可能になっていたり
実現手段を得ていたり
もっとすごいことができるようになっていたりするので
瓶の中に閉じ込められた蜂みたいな感情にはならなくなっている、だけ、だ
ややもすると、確固たるビジョンと手応えを得ているだけに
若いときの闇雲な情熱よりも大きなエネルギーになっていることすら、ある。


わたしでさえも、だ。


普段の生活のなかで
幼稚園児を二人抱えるシングルマザーな訳なのだが

この生活の中で
あの頃の私だったら
こんなに逞しくいろんなことできてないと思うんだよね……

いや、無理、ほんと無理。
いつもキッズが二人わあわあしてるし
定時ダッシュで帰らないとお迎え間に合わないのに、15分で靴買って帰るとか
そこからご飯作って風呂入れて寝かしつけて、家事してからPCに向かうとか
毎日できるわけじゃないけど、できない日の方が多いけど

たまにできてる時点で
これを情熱と言わずして、何と呼ぶってレベル、でしょう。

現実の中で発露される、そういう情熱は
机上の理想論とは全く違う表情で発露されているもので
でも、だからこそ
大人は、現実を生きる生き物は、その理想論を、褒めるのだ
「いいねえ」「もっとやれ」って


理想のお話が遥か高みにまで突き詰められれば、それは現実へも波及する
いいぞ、もっとやれ
もっともっとやってから、それを、ガッと握って、現実の中にブッ込んだらいい
そうしたらきっと、もっとがあるから
握れない程度の、握り潰れる程度のものなら、握ってしまったら楽になるから


最近、戦争を憂い、世界平和を人々が目指さないことを声高に咎める人を見た
ごめんね
わたし、単なるワーママですけど
うちの会社、本気で世界平和を最終目標にしてたりするんだ。
だから、ちょっとは、貢献してるって、いえるんだよね。
現実、って、そういうこと。
夢物語を語るのではなくって
その時語った夢の中に、生きてるわけだから
夢を、第三者視点で語らなくなっただけ、なのよね

あの頃、現実味が世界に感じられなかったのも、そういうことで
だって、まだ、現実の中に生きていないのだからしかたないことで
でも、それを見なければ、現実にはいきることができなくて……


人間って、一人一人が生きて、成長して、老いて死んでいくことしかできないから
人一人分の人生をやることしか、できないんだよね。
だから、みんな、似た様な道を、ちょっとずつ変えてあるいて、死んでいく
そういうふうに歩いた人がたくさんいれば、いるほど、
その積み重ねによって人の歩く道はちょっとづつ変わっていくことができる、だけ


「いいねえ」


あのとき、母に言われたその言葉を
死ぬほどムカつく!!と、捉えた私だけれど


その言葉に含まれている万感が今、また、蘇って新しいことを、伝えてきやがる
あと何度、蘇って「すげーな」と思わせてくるのだろうか。



「いいねえ」



絶対私もいつか
娘たちに、フルスイングで、投げつけてやると、決めているけど
きっと、自然にこぼれ落ちてしまうんだろうな、と、知っている。
気付かないうちに、すべりだしてしまう、もの


「いいねえ」



きっと、それこそが
生きてきたあかし、そのものなのでしょう。





サポートいただけたらムスメズに美味しいもの食べさせるか、わたしがドトります。 小躍りしながら。