わからない、ということ | エッセイ

この人いやだな、とか会話がストレス、ということがたまにあります。
なんでなのか、ずっともやもやとしていました。理由がわからない以上自分が相手にとってそうなってしまっていることもあると思うと怖いです。

最近、ちょっと思うことができたので書いてみます。

身近な人で会話がしんどい人を頭に思い浮かべると、やっぱり考えを認めてもらえないことがいちばんの共通点だと思っています。
否定されるというよりも、話題の中心点がズレる、何度試しても一致しないというか。

最近読んでいる本で、「夢を叶えるために脳はある」という本があります。
この中に、いわゆる人工知能と人で違うのは「思い込み」の能力の有無、という記載がありました。※人工知能に「思い込み」の能力をつけることはできるけれど、人工知能の利点が弱まってしまうそうです。

この「思い込み」の能力のおかげで効率よく学習ができるそうなのですが、見落としていることがたくさんあり、正確性には欠けます。

これが会話の中で悪い働きをしているのだろうと思います。会話の中に、自分が知らないことが出てきている、ということに気づかず、自分が持っている知識と同一視して、会話を続けている。
アンジャッシュさんのネタみたいな状態になる人。なんとかして、話したいことはそうじゃない、と情報を付け加え続けてようやく話が聞けたり、時には知らない、わからない、という回答になって、この時間はなんだったのだと虚無になることがあります。

大前提、私の尋ね方、話し方がまずいのでは、という考えもありますが、人によって傾向が強くあるので、話している私が変わらない以上、その傾向の依存先として会話相手の変数に着目します。

この「思い込み」の能力は、効率よく生きるために必要で、この能力を活用しないといつも正しく理解出来ていないのでは、と疑問を抱き続けることになりしんどく、また自分に自信をもてず成長しにくくなるという問題もあります。

そのため、この「思い込み」の能力をうまく活用しながら、会話に対応していく、という作業が必要になります。

こう考えるとそんなことが可能なのか、と絶望的になりそうになります。相手の言うことを思い込みなしに聞くことなんてできるのか。

そもそもは世の中理解することなんて不可能だと思います。もちろん科学はあって、ニュートンの法則や現時点理解していると思っていることはあります。だけど、そもそも時間が前に進んでいるということだって怪しいものです。自分たちが生きていくために色々と定義した世界を本当の世界だと思わない方がいいと思っています。

定義した世界は、人類みんなで作り上げたもので、流石に素晴らしいし、これを否定するわけでは全くないけど、これが揺るがない、無神論者ではありますが神の視点から見た世界だと思わない方がいいと思います。

これも一種の私の哲学なので、強要は全くできないけど、わかっていることなんて本当に僅かで、わからないことの方が圧倒的に多いのだということくらいは人類共通の認識にしていいのでは、と思います。

この私たちが認識している世界が全てだとどれほど強く思っているかどうかが、会話のしやすさに出ているのではと、ふと思いました。
でないと、自分が正解だ、なんてことにはならない。自分はこう思うし他の人もおよそそう思っている、がせいぜいの限界点。
自分に自信があるのはいいことだけど、自分の世界だけにとどめておいてほしい。
全部「自分が」思っているということを忘れないことが大事だと思います、「みんな」じゃない。

かくいう私も実践できているかは怪しいですが、(確認もメタ認知が必要で難しいと思う)世界ってわからないことだらけだって本当にわかってる?って説いてまわりたい今日このごろ。

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