見出し画像

映画『思い、思われ、ふり、ふられ』批評―和臣は『鉄男』を勧めなかった―

コロナ騒動でアニメ版の映画が延期され、実写版が先に公開された。原作マンガは映画化発表前に既に読んでおり、それというのも、昨年の時点で三木監督あたりでそろそろ映画化されるのではなかろうかと予想しての読書であった。そしてそれは見事的中した。

三木孝浩監督の作品は過去のものは一通り目を通しているほど、作家として追いかけている監督の一人である。しかしながら、それらを鑑賞する時の姿勢は、傑作の鑑賞というよりかは、「監督」をアイドルと捉えた「アイドル映画」として観ている自分がいる。監督としての成長を、映像を通して見出だそうとする、我ながら気持ち悪いひねくれた視点を、三木監督には長きにわたって行っている。しかしこれこそコアなアイドルオタクといえるのではないだろうか。

そんな映画の本編を観始めて最初に感じたことは、絵作りの物足りなさである。これは三木監督の力が衰えたというよりも、(少女)マンガの実写化・恋愛ものの実写を撮る他の監督のレベルに、自分が数多く圧倒されてきた結果だと思われる。具体的には、山戸結希『溺れるナイフ』『ホットギミック』、小林啓一『殺さない彼と死なない彼女』、大久明子『勝手にふるえてろ』、今泉力哉『愛がなんだ』などが挙げられる。特に山戸監督の圧倒的な作家的演出力は、通常の絵作りでは歪さが目立つばかりであった、これまでの少女マンガの独特な世界観を、見事に「映像芸術」の域にまで昇華しており、映像のテンポもきわめて現代的で速い。それに比べてると、本作のテンポは、4人の心のすれ違いを描いていくという点で自ずと多少急ぎ足にする必要があるものの、それは尺の都合であって演出とは別の話しであろう。そして、いかんせん退屈に感じる箇所もある。そうかといって、ハッとさせられるようなタメがあるわけでもなく(和臣が朱里にカメラを向けるシーンはほぼ唯一それが感じられて印象的。浜辺美波の表情演技も見どころ)、終始テンポに変動が見られないのも原因の一つかと思われる。

また、本作で特徴的なのは、登場人物たちのナレーション・心の声が非常に多用されている点である。冒頭で4人が別々にテーマを囁くことはまだ良いだろう。しかし、物語が始まっても、登場人物たちの心が揺れ動くたびにナレーションで心の声が流れてくるようでは、我々観客に考える余白が生じ得ない。観客層が女子中高生だからこれくらい分かり易くしてあげないと……という配慮なのかもしれないが、自分はあえてそこには、若者をバカにするなと批判したい。役者陣の演技が下手だから声でフォローしたのだという現場の本音もあるのかもしれないが、それは演技指導云々の話だろう。

一方で、本作の原作はあくまでもマンガであり、その表現方法として登場人物たちの心の声が吹き出しとして明記されることは自明のことでもある。それを異なるメディアの映画に置き換えた時に、要所に彼ら彼女らによるナレーションを付けるやり方は致し方ないことのようにも一瞬思った。実際、このような演出は数多くの映画で試みられている。

しかしながら、自分は原作マンガを全部読んだからこそ言えることだが、原作者である咲坂伊緒さんの描く作品は、登場人物たちの心の葛藤・内面描写を緻密に表現しており、これらは少女マンガの大きな特徴の一つでもある。それでもなお、この原作マンガの凄いところは、作者の描く絵が非常に繊細で上手いからこそなせる業だが、特に登場人物たちの心が揺れ動く場面では、吹き出しの文字に頼らず、まさに「絵」だけで人物の心情を表現して見せているのである。つまり、原作の強みが「絵」で魅せる表情にも関わらず、本来それを得意とする映画のほうが、役者たちのナレーションに頼ってしまっているために、自分には何やら「これじゃない」作品に感じてしまったというわけだ。

作品のテーマとしては、最後に改めて彼ら彼女らの口から再びつぶやかれるので、この場で事細かく書く必要もなかろう。観ての通りです。

また、映画の方は原作のあのボリュームを、見事2時間に収めていてその点は感心もしたが、物語の軸を由奈の主観ではなく、朱里たちに置いているので、原作の前半部分をだいぶ端折ることに成功している。そこは映画が客観芸術であるという性質の結果として、まあまあ許容できた(まあまあというのは、その結果、由奈というキャラクターの存在感がだいぶ薄れている)。

その他、細かな点としては、本作の脚本には三木監督自身もクレジットされており、また作中には、映画好きで将来は監督も密かに志望している男子高校生・和臣が登場する。当然そこには、『桐島、部活やめるってよ』みたく、監督の好みがキャラクターに多少なりとも反映されるものと期待していた。

その結果はぜひとも劇場でご覧になってもらいたいが、原作でのチョイスとはまた異なる、実在の映画作品が作中にいくつか登場していたので、スピンオフ感覚で、本編鑑賞後にそのままTSUTAYAに立ち寄って、登場した作品をレンタルしてみるのも良いだろう。


そして、校舎の屋上で和臣がカメラを朱里に向けている印象的な場面やら、そのあとの夕日やら、和臣というキャラクターはきっと、8年の時を経て一般ピープルに歓迎されるようになった「前田」(『桐島』で神木隆之介が演じた映画部の高校生)なのだと、自分は一人納得し、その変化が嬉しくもあり、同時にとても切ない気持ちにもなった。

(和臣がもし前田だったら……)。自分の頭の中では、ひとり『打ち上げ花火~』がごとく、別のIF映画が同時に上映されていた。

そこは『アバウト・タイム』じゃなくて『鉄男』とか『ゾンビ』を紹介するのが前田だよな! 自分はいつまでもお前の味方だぞ! ってな感じで。

というわけで、結論としましては、北村匠海や浜辺美波の演技がダメとかではなく、原作の繊細さを完全に体現してみせるという域にまでは達していなかったという点で、鑑賞後にはぜひ原作のマンガも手にとってもらいたいと思ったのが率直なところです。映画も決して悪い作品ではありません。


追記:チキンを手で食べた後に、手に付いた汚れを拭く動作でパンパンとはやらんでしょ。埃じゃないんだから。油よ油。

追記2:主題歌とまではいかずとも、特別ゲストでGLAYでも出てくるのかと思った。それほど登場人物たちは、「ここではないどこか」を口にします。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?