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映画『約束のネバーランド』批評 ―なぜ子どもたちは「楽園」から出たいのか―

初めに断っておくと、自分はこれまで、平川雄一朗監督作品を観るたびに怒りを通り越して茫然自失の目に遭ってきた。『ROOKIES 卒業』にはじまり、『ツナグ』『僕だけがいない街』『春待つ僕ら』『記憶屋 あなたを忘れない』などどれも散々だった。そのような過去作品と比較した時、本作はもしかすると彼の作品史上最高傑作かもしれないと思った。ちなみに原作は未読。

もちろん彼の作品史上なので、一目瞭然な欠点――マンガ原作を実写化する際に起きる問題点をスルーしてしまっている部分は否めないのだが、本文ではそうした欠点にはあえて触れず、それ以外の話運びに注目したい。

まず本作を観ながら、そのビジュアルや世界観、テーマまでをも含めて思い浮かんだ作品は、昔観ていたテレビドラマ『女王の教室』である。

「孤児院」と称される物語の舞台は、いうなれば学校と大した違いはなく、「里親が見つかる」とは学校での卒業と重ねられる。北川景子が演じる「ママ」はいわゆる教師であり、『女王の教室』ならば天海祐希が容姿共に重なる。それほどまでに本作は酷似している。

また、「ママ」は子どもたちの敵役になることを通して、自ら考え生きていく力を育んでいく。それはまさに教育現場そのものだといえる。そのような教育現場=学校は、子どもたちにとって「楽園」として描かれる。このあたりの設定は原作が上手いのだが、現代の学校とは、ルールに雁字搦めにされる狭苦しい空間ではなく、予測不可能で危険かつ不安定な社会から身の安全を守ってくれる「楽園」として本作では登場するのだ。

この点は自分がもう5年以上前から言っている、「若さ至上主義」への批判としての表象だといえるだろう。「若さ」とは確かにかけがえのないものであるし、価値がないとは言わない。しかし「若さ」「青春」「中高生(特に「JK」=「女子高生」)」を過剰にブランド化することは、本来であれば自身を構成する一つでしかない「若さ」という期限付きの属性に、アイデンティティーの多くの部分が依存し過ぎてしまうのではないか。

日本のアニメの主人公の大半が高校生であるのは、確かにその年代にある種の「楽園」を見るからであろうが、そればかりが絶えず量産され強化されていくことは、その先の大人像やアイデンティティーを見失いやすくなるのではないか。その意味では実写邦画の分野でも、青春映画が多くつくられ、幸か不幸か質の高いものも多く生まれているというのが嬉しくもあり、同時にいつまで我々は「青春」の呪いから抜け出せないのかと恐ろしくもある。

本作のテーマはまさに、そのような「若さ」=「(偽)楽園」からの脱獄を目指した子どもたちの物語である。

しかし、いざ脱獄ともなると、問題となってくるのは【なぜ子どもたちは「楽園」から出たいのか】である。ここが不自由な刑務所ならば、文字通り自由を求めて必死に逃げ出すだろう。だが、「孤児院」の生活は別段不自由とも言えず、むしろ彼らは楽しい日常を過ごせている。時が経てば「出荷」され「鬼」に食べられるとは言っても人はいつか死ぬわけで、それならば楽しい日々を続けていればいいのではないか。――これらは「ママ」をはじめとする大人たちの主張であるが、これを子どもたちは拒絶し脱獄に向かう。なぜ子どもたちは「楽園」を捨てて予測不可能な辛い外の世界に向かうのか。大人になりたいから? みんなと一緒にいたいから? 子どもたちなりに今の場所を不自由と感じたからこその脱獄なのはわかるのだが、本編でその問いの掘り下げがされることはあまりなかった。

したがってこの問いは、そのまま観客である実際の中高生に向かうはずだ。楽しい「青春」を謳歌できる環境が今目の前に揃っているとして、しかもその先も苦しむことなく「青春」の中で死んでいける。それを捨ててまでわざわざ辛い現実に飛び込んでいくのかどうか。『鬼滅の刃 無限列車編』でも描かれる理想と現実の対比構造であるが、コロナ禍の今だからこそ改めて問い直したいテーマであることには違いない。「今の楽園よりも、絶望の中でも良いから、新たな自由を求めて生きていきたい」にこれからの若者たちの支持を得られるのかという点が、今後とも気になる次第。

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