その日の天使。カフェのこと。
3年前、カフェを持とうと思い立ったころ、
だいたいのことがそうであるように、「なぜ」とか「どうなりたい」は、明確なつもりだけれど、明確と曖昧を行ったり来たり、よく分からないでいた。
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数ヶ月後、紅葉が終わった12月はじめか、肌寒さの入り口ころ。ふらりと入った古本屋さんで、懐かしい本をみつけて、思わず手に取った。
『恋は底ぢから』
中島らも のエッセイ集である。
ぱらりと開いて、目次を追うと、大好きだったタイトルが飛び込んできて、
なんだか無我夢中でそのページを繰った。
孤立感に苛まれているときや、もう生きなくていいかな、とか、深くぬかるんだ気持ちのとき、
遠くの友だちから電話がきたとか、街で懐かしい曲が流れてきて深呼吸できたり、不意に路面店のウィンドウに映った自分をみて吹っ切れたとか。
たとえば、そういうこと。
このエッセイに出会う少しまえ、
思春期的に、自分でも原因の分からない、どうにも整理のつかない毎日を送っていた。
いよいよ、もうダメかもなとなった日の夕方、学校から帰宅すると、ポストにわたし宛の葉書が届いていた。
長崎の祖母から。
さして綴ることもないだろうに、ご機嫌伺いの優しく思いやってくれる、いつもの万年筆の文字だった。
宛名の文字をみた途端に落涙し、
ポストから外階段を昇り、カギを開け、リビングを通って自分の部屋に辿り着くまでに、もう信じられないくらいに泣いていた。誰にも会わなくて良かった。家族が不在で良かった。
涙にのせて、やっと澱が外に出たのかも知れない。
祖母のなにか大きなものがとくべつに見つけてくれたような気がした。
祖母とつながっている、それがきょうをつないでくれた。
たぶん、数日のさしつかわされた天使たちが話し合って、連携してくれたのだ。
そういうことなんだと、あとにエッセイを読んだとき、温かくなった。
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カフェのこと、
古本屋さんで立ち読みしたとき思った。
願わくは、その日の天使たちに使われるお店にしたい。
もちろん、誰かが調子が良くても悪くても、どんなときでも。
それがわたしのカフェ像の底流に根を張っている、ひとつのこと。
あの日、古本屋さんで「恋は底ぢから」を手にしたのも、きっと、その日の天使の計らいかも知れない。
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効率悪く忙しなくしてたらロートレック展行きそびれて凹