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感覚の合う人って少ないよね

久しぶりに大学時代の友人と2時間話し込んだ。やっぱり大学時代の友人は、お互いが話す言葉を感覚的に理解できて、話していて面白い。

私が「この人とは会話ができるなあ」と思える人はとても少ないらしいことは、25年間生きてきて、よく分かった。

考えはじめると思考が止まらなくて、自分の考えを伝えるためによく言葉を選び、話してみると社交的で、人前で話すことが得意で物怖じしないタイプ。

よくよく考えて、まっすぐ素直で、納得できる理由なく自分を曲げることが難しくて、どちらかというと病みがちで、それでも自分を受け入れて幸せだと感じられるようにまた思考を繰り返す人。

そんな人が私は好きだし、実際、私の友達にはそういう人が多い。そして〝そういう人〟は話した時の感覚でわかる。

大学時代はこういう友人が1番多かったと思う。それまで地元で、自分の感情も処理できずに荒れ果てていた私にとって、彼女らとの出会いは衝撃的で嬉しすぎるものだった。

自分の話す言葉を分かってくれる人がいるというのは、こんなに幸せなことなのかと、しかもこんなにたくさんいたのかと。

今まで歳の近い人との会話は空虚で薄っぺらくて、全く面白くも何ともなかったものなのに、この人たちとの会話はなんて面白いんだろうと。

それと同時に、出会った彼女たちを羨ましく思い、憧れの眼差しで見るようになった。

大学時代の友人たちは、皆なにか好きなものがはっきりしていた。歴史好き、ダンス好き、映画好き、本の虫、舞台好きなど……。

私はそれが心底羨ましかった。彼女らの持つ文化的な教養を、自分が全くと言っていいほど持ち合わせていないことに恥ずかしさを覚えた。

そこから私はみんなの真似っ子をして、少しづつ、本を読み、映画を観て、友人と沢山のことを話して知識を分けてもらった。

その最中に、私は地元の文化的資本の少なさ(地域格差があまりにも大きすぎること)に怒りを覚えたし、自分が18まで自分の感情に蓋をして生きてきたことを激しく後悔した。

それも今では「まあ、スタートラインに立つのが遅かっただけで、自分にはいろいろなものの良さを受け入れる土壌がやっと整ったんだし、これから楽しんでいくか〜」という気楽な気持ちでいられる。

……私のこの感覚は決してマジョリティではない。よく、「変な人だね」「変わってるね」「そんなこと考えたこと無かった」などなど言われている時点でお察し。

自分がへんてこりんなことは早めの段階で気付いたから、それならいっそ尖って生きていくかと意気込んだこともあった。でも私にそれはできなかった。というか、そこまでエネルギーがなかった。どうやら私はへんてこりんな省エネ型らしい。

一時は、尖りきれない自分が、決してマジョリティではないのに平凡に埋まっていきそうな自分が、もうどうしようもなく怖くて必死にもがいた時期もあった。

それでも20代半ばにもなると、少ないエネルギーで、自分の手の届く範囲で幸せを感じられるように、と自分に折り合いを付けられるようになってきた。

大人になるということは諦めることだ、と前に聞いた時は「そんなつまらない人生絶対に嫌!自分を貫いて唯一無二の存在になってやる!」と全方位に神経を尖らせていたけれど、今となってはこの言葉の意味もちょっとわかる。

大人になるということは〝上手に〟諦めること。(今日友人も言っていた)

その代わり、自分の根っこは曲げない。自分の持ってる素敵な感覚はそのまま磨き続ける。そのために、不要なところは諦める、という感じだろうな。

あまり好きでは無い言葉に「自由のためには義務を果たす」みたいな言葉があるが、まあそんな感じで何事もバランスなんだろうな……。

とかなんか色々思ったところで、結局この先の未来も自分の道を歩いていくしかないってこと✌️

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