【子育てと社会】ベビーカーを畳むかどうかで夫婦喧嘩?
ここ数年、電車もバスもベビーカーを畳まずに乗車しているご家族をよくみるようになりました。
わたしは良いことだと思うのですが、ほんの一昔前までは、「公共交通機関利用時のベビーカーは畳むもの」、みたいな風潮だった気がします。
果たして公共交通機関でベビーカーは畳むべきなのか?
今回の記事ではそのあたりについて考えます。
【公共交通機関で夫のピリピリ発動】
週末の東京。
中央線のホーム。
病み上がりで少し元気がない4歳の娘をベビーカーに乗せ、我々家族は電車を待っています。
はい、ここ!
「夫ピリピリポイント」です。
まず、「公共交通機関」。
基本的には穏やかな人格の夫ですが、「公共の場」、中でも「公共の交通機関」となると周囲への行き過ぎた配慮から、我々家族に対してあたりが強くなりピリピリし始めます。
更に、その「公共交通機関」が「中央線」である場合、ピリピリは臨界点を越えて狼煙があがるほどに激しくなるのです。
なぜか?
それは図らずも「彼が8年間も通ってしまった大学がある沿線だから」なのでは、とわたしは密かに想像していますが、事の真意はわかりません。
【ベビーカー畳んでよ!】
「車内が混んでたらベビーカー畳んでよ!」
電車待ちのホームで頭からプスプス煙を出しながら、夫が語気強めに告げてきます。
滑り込んできた電車の窓から見えた車内は、ほどほどに人が立っている、という状況です。
「よし、そんなに混んでないな。これならベビーカーでそのまま行けるぞ」そう判断して、ベビーカーをたたまずに乗り込もうとしたわたしは、隣を見てびっくり。
なんと夫がわたしを睨みつけているではありませんか?!
「知らないよ、俺は」そう言っているようです。
乗り込んだ後も、「俺は、畳めと言いました。」と言わんばかりに、離れた場所で空一点を睨み続けています。
離れていても伝わるそのピリピリ感。
【周囲を気にするあまり痴話喧嘩勃発】
4つ目の停車駅で降車予定の私たちを乗せ、電車は間もなく1つ目の停車駅。
扉があいて乗客が降りていきます。
夫「降りてっ!」
わたし「は?」
夫「1回降りてっ!邪魔だろっ?!」
出入り口を塞いでいるわけでもないし、正直、そこまで邪魔な感じはしません。
わたしはこの大都会東京で、時に不要なほどに周りに気を使って生きています。
そのわたしが言うのだから、おそらくそれは降りる必要がない程度の混雑状況だったとおもいます。
でも、もう、こうなるとだめですね、夫婦って。
私もカッチーン!
そもそも始めからピリピリを振りまいて、あんたはなんなん?
「〇〇、〇〇(子供の名前)!降りるよ!」
ほとんど当てつけのような大きな声で子ども達を促します。
「え?なんでー?」と無邪気に私を見上げてくる子どもたち。
大人げないと思ったけど、なんか、もう、止まりません。
「ほんとだねー。『お父さん』が『降りろっ』て言ってるから一度降りますよ!。」
「お父さん」と「降りろっ」を
思いっきり強調しなから、ベビーカーを持ち上げて一度電車を降ります。
車内には、やや遠くからガンを飛ばしてくる夫。
あいつです!あいつ!
わてら、全く降りる必要ないけども、アイツのせいで、いま、不要に下車しております。そしてまた乗車するんですよ、あほでっしゃろ?
【ベービーカーを畳むのは一大事】
と、まぁ、このチンピラでポンコツな我々夫婦の痴話喧嘩はどーでもよいのですが、、、、
ベビーカーを畳むということは、それありきで行動している「子育て人」にとってとても大きな問題なのです。
ベビーカーに「子ども」を乗せ、その子どもの「荷物」を乗せ、その子どもがいつぐずり始めるかわからないという「リスク」も乗せて、子育て人は満身創痍で外界を移動しています。
もちろん、どんな状況でも畳まずに突進せよ!というわけではありません。
混み合う車内では畳みますし(この感覚が人によって違うから揉めるのだけど)、ぎゅうぎゅうならばそもそもその移動手段ははなから諦めています。
問題なのはビミョーに人がいる状況の公共の場面。
そういうとき、我々は迷います。
ベビーカーを畳むということは、まずはそこに乗っていた子どもを抱き続けなければならない。
そして乗せていた荷物を全て降ろして我が身のあらゆる部位にそれらを全て掛けなければならない。
幼い兄弟がいるのなら、ベビーカーに捕まらせていた手を我が手と繋いで転ばないようにしなくてはならない。
また、畳んだベビーカーはめちゃくちゃ倒れやすいので、ホールドしなくてはならない。
更にコロナのマスク生活のときなどは、わたしは娘にマスクを外されてはつけ直し、外されてはつけ直しを、延々と繰り返していました。
こんな見えない攻防も含めるとベビーカーを畳むことによる苦労は枚挙に暇がなく、とにかく、めちゃくちゃ大変なのです〜😭。
それが身にしみてわかる人からは、間髪入れずの「たためよ!」という言葉は出てこないと思うのです。
【こどもも子育て人も、のびのびと生きられる社会の未来は明るい】
一人一人がほんの少しずつずれたりスペース作ったりして、なんなら「はじっこどうぞ」とか声かけしてあげられたりしら、子育て人はもっと怖がらずに社会へと出て行けます。
また、そのような声がけをすることで自分とは関係ない他人の子育てが、
「自分の生活を邪魔する他人の子育て」から「自分も参加している他人の子育て」に変わっていくんじゃないかしら、、、
などと、思いました。
そんな思いもあって、わたしは、10年という時間をかけて子育て同志として絆を育んできたと思っていた夫から、まさかの「自分の生活を邪魔する他人の子育て」的な視点を向けられたことが、とてもショックでした。
おおらかに、朗らかに。
子どもも子育て人も、のびのびと生きられる社会の未来はきっと明るいと思うから、そのためにできることならわたしはどんな小さなことでもやっていく!