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医療は過大評価されすぎ?

平野克己さんの『人口革命』という本を読んでいたら、20世紀の人口爆発(15億→80億)は、なんといっても農業生産性の向上がデカいということが指摘されていました。

農業革命が最初に起こったのは18世紀のイギリスですが、19世紀にはドイツの化学者が大気中の窒素からアンモニアを生成することに成功し、それを原料に大量の窒素肥料が農業生産の現場に用いられるようになった。20世紀にはこうした肥料技術がアジア・中南米など途上国にも広がり、世界の農業生産力は爆発的に向上していったわけです。

江戸時代ぐらいまでだと、人類は、日本に限らず、だいたい人口の9割近くが農業に従事してそれでなんとか食えていた(しかもそれで養えたのは地球全体でせいぜい十数億人だった)のだが、生産性が爆上げした今日、人口の数%が農業に従事し、大規模集約的な生産を行うだけで、世界中の人々(80億人)を、食品ロスが社会問題化する程度には食わせられるようになった。


ところで、なんとなくですが、人口が増えたとか寿命が伸びたみたいな話は、しばしば医療の進歩の文脈で言及されることが多いように思います。「いやあ、やっぱ医学や公衆衛生が発展して、それこそワクチンや抗生物質が開発されて、それで人類はこれだけ長生きできるようになったんだよねえ」というノリが発揮されがちですが、事はもっと単純なのではないか。単純に、我々は「満足に食えるようになった」から、これだけ長生きできるようになった、簡単に死ななくなったってことではないか。

農業生産性が上がり、また蒸気機関の発明に端を発する、いわば「輸送革命」によって、我々は、市場経済の取引の恩恵に与りつつ、世界中から多種多様な食料を買い求めることができるようになった。中南米からアボカドを輸入したり、アフリカからコーヒーやルイボスティーを輸入したりできるようになった。生産性が向上して胃袋に入れられる量も向上したし、グローバルな市場経済の流通網のおかげで、選べる食品の多様性(質)も向上したというのが現代なわけです。そこからいくと、医学こそが人の命を救い、寿命を延ばしてきたという物語は、いま一度立ち止まって再検討を要するものかもしれない。

医師の大脇幸志郎さんも、シラスの放送で、何の回だったかは忘れましたが、イギリスの結核死亡率が、抗生物質の発明以前からすでに長期低下傾向にあったという趣旨のことを指摘されていました。抗生物質は、あくまで「仕上げ」ぐらいの意義しかなく、何なら「手柄横取り」的なきらいすらあると。では、何が医学の進歩に先立って結核死亡率低下に貢献したか。大脇さんはそこまで触れておられませんでしたが、なんだかんだ、食糧事情の改善が大きかったのではないか。長い目で見て、食糧事情の改善が、病気と闘えるだけの体力を人口に対して着々とつけていった。食糧問題の解決・改善こそが、寿命延伸にとってエッセンシャルで核心的だった。世界に先駆けて近代化を果たしたイギリスで、抗生物質や上下水道の整備云々以前にちょっとずつ改善が進んでいたというのは、非常に示唆的なことのように思います。

また、この『人口革命』という本でも、読み進めていくと、「乳児死亡率低下の約56%は、医療技術とは無関係に実現していた」(p.30)と指摘されています。これは、西田茂樹というある公衆衛生の研究者の論文を引用して述べられたもので、元の論文にあたってみると、確かに以下のように書いている。

感染性疾患に対して有効な治療法である化学療法は、肺炎・気管支炎、胃腸炎・下痢、髄膜炎・脳炎による乳児死亡率がある程度低下してしまってから導入されており、歴史的に見た死亡率低下への貢献は小さい。乳児固有の疾患についても、有効な医療技術の導入は、死亡率がある程度低下した後であり、歴史的に見た乳児死亡率低下への貢献は小さい。

西田茂樹「わが国の乳児死亡率低下に医療技術が果たした役割について」

現代では、子どもが産まれると予防接種の綿密なスケジュールをこなすことが決まりとなっていて、そういうのを見ていると、「やっぱりこうやってワクチンをたくさん打つことが大事なんだな」と素直に考えてしまいます。つまり、それらのワクチンを「ちゃんと打たなかったら」、乳幼児はたくさん死に、目も当てられないような状況になりかねない。そういう思考に無意識のうちに引っ張られてしまうんですよね。

ただ、ワクチンに代表される医療技術の意義は、一方では過大評価されているのかもしれない。「あってもいいけど、なくてもいいもの」の類として、少なくとも非公式には、クールに評価しておくべき代物かもしれません(死亡率を下げるということに関して、決定打ではなかったんだと)。あと、やはり時代の価値観の問題もあるでしょう。西田氏は、死亡率がある程度低下したあとで、半ば漁夫の利的に医療技術が覆い被さったみたいな感じで書いていますが、その「ある程度」の度合いに、おそらく現代人は耐えられないんだとも思うんですよね。

ある程度っていうのは、例えば平均寿命50歳→75歳とか、死亡率30%→10%みたいな変化なんでしょう。決定的な効果を示すものですが、一方で現代人は、「でも10%も死ぬのかよ」と不平不満を漏らしてしまう。漏らせる権利があるということになっている。だから「念のため、そして一人でも多くの命を救うため(そして他の人に迷惑をかけないため)、ワクチンを打って完璧に守りましょう」という話が通用しやすい。

一言でいえば、現代は、「別に医者に頼らなくても9割助かるだろ」というのではダメで、100%助からないと各所方面から叱られる世界なわけです。医療的介入によってかえって害される命もあり、実際に100%に近づいているかといえばトントンな場面も少なくはないような気もしますが、ともあれ大勢としては、医学が生命の理想的な繁栄に向けて確実に貢献しているはずだという希望的観測が支持される格好になっている。


そういえば、Xの勉三さんも時々言われているように、人間の平均寿命は、ある程度の医療インフラが整えば基本的に80歳を超えてくる。

現代では、寿命を80歳からさらに2年、3年伸ばそうとして膨大な医療費(税金)が投入されているが、一方では少子高齢化が着実に進んでおり、医療費をはじめとする社会保障予算の持続可能性は、今後ますます問われていくでしょう。なにかあると、メディアや有識者は「高齢者を殺す気か」「社会が崩壊していく」などと煽り立てるでしょうが、ここまでみてきたように、医療が救命・延命に貢献する程度はいくぶん過大評価されているという認識があれば、そこまで絶望せず穏やかに自分たちの老後を展望できると思う。

将来、仮に「医療崩壊」が起きて、さらに抗生物質やワクチンが全く効かない世界が到来したとしても、案外人類は平気でやっているのではないか。ちゃんと食えて何か病気になったりしても9割方助かるような世界であれば、人類全体の幸福度はそこまで変わらない。そういうレジリエンスを期待できるというのは、現代がそれだけ豊かな世界だということなのでしょう。いや、ほんま感謝っす。

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