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ヨルシカLIVEに参戦した女子大生のレポ

人生最大の衝撃だった。

今までの常識を覆すライブだったが、それは間違いなくライブだった。

公演前に流れるアナウンス。携帯電話の使用禁止やマスクの着用願いはもちろんのこと、立ち上がっての鑑賞やペンライト・光物の使用も禁止された。ずいぶん徹底しているんだな、程度だった。

ヴーーー。開始のブザーが鳴る。程なくして、帽子を目深に被った男性がピアノの前に歩いてくる。

そして始まったのは音楽ではなく、ある夏の「物語」だった。

n-bunaさんによって語られていく物語の序章。この時点で、私はすでに会場内を満たす空気感に呑まれ始めていた。次々に流れていく映像、小説、そして朗読。不意に終わりが訪れ、1曲目の始まりを告げるサウンドが響いた。

瞬間、会場はヨルシカのものになった。

音楽の始まり

詳細なセットリストについての説明は省略する。

理由は単純で、はっきり覚えていないから。あまりに没入しすぎて記憶に焼き付けておこうという意識すら湧かなかったのだ。

最初に演奏された「春ひさぎ」は、ライブ幕開けにふさわしい1曲だったと思う。suisさんの歌声とバンドサウンドは観客を圧倒し、一切の行動を躊躇わせた。

1曲目のあと、拍手は鳴らなかった。

それから「思想犯」「強盗と花束」、再び始まる朗読。

朗読の終わり、4曲目に流れたのは大好きな「昼鳶」だった。イントロの小気味良いリズムが会場や私を震わす。気持ちは最高潮まで昂った。

本ライブには、朗読がたびたび組み込まれている。n-bunaさんが物語を語り、それを彩る曲たちが演奏されるのだ。MCもアンコールもない、ここはあくまでも「盗作」という物語を完成させる場であるという徹底した姿勢に私はしびれた。

作品の終盤で演奏されたのは、「盗作」「爆弾魔」「春泥棒」「花に亡霊」の4曲。「盗作」で登場したカラフルな舞台セットには目を奪われたし、「春泥棒」でステージ一面に咲いた花びらの映像は圧巻の一言だった。

最後の曲「花に亡霊」が終わる。ステージからn-bunaさん以外の演者が消える。最後の物語が語られる。終始とまらない鳥肌。

魂はガラクタの寄せ集め。即ちそれは、「盗作」である。

物語が終わる。

五感で感じるヨルシカ世界

今回彼らに直接触れて、私の中のヨルシカ像は大きく形を変えた。

私はsuisさんからヨルシカに入った人間である。彼女の歌声に惚れ込み、彼女のような表現力を持てたらどんなにいいか、そんな羨望の気持ちからヨルシカを追いかけていた。

しかし、このライブで見たsuisさんはあくまで伝道者であった。

suisさんだけではない。n-bunaさんも他の演者さんも、関わる全ての人間がヨルシカの構成要素でしかなかった。彼らは、n-bunaさんが作り上げる世界観を私たちに伝える伝道者。自分というコンテンツを自ら主張する人間は一人もいなかった。

あるのはヨルシカだけ。n-bunaさんが創る圧倒的な世界だけだった。

ヨルシカに触れた私

私がこれまで行ったライブは、観客が手を叩き、大声で叫び、ペンライトを振り回すものが大半だった。故に、本ライブの衝撃は大きい。

ライブに行って初めて自分という存在が必要ないと感じた。しかしそれは心地よい疎外感で、ただの傍観者へと成り果てた自分に満足すらしていた。

すごいと分かっていたが、ここまで世界観を徹底するアーティストだったとは。

ライブの幕開けと幕引きで登場した「魂はガラクタの寄せ集め。即ちそれは、盗作である。」(※正確な文章は覚えていない)という一文も、実にn-bunaさんらしいなと感じた。

私たちは生まれてから数えきれないヒト、モノ、コトの影響を受けて形成されている。価値観やものの見方は全てそれらの介入を経て成り立つものであり、私たちの表現は結局それらの盗作にしかなり得ないのではないか。オリジナリティ、アイデンティティは一体どこにあるんだろうか。

物語を通じて、n-bunaさんの哲学が少しだけ垣間見えた気がした。

ヨルシカには無限の可能性がある。私はそれに魅了されてしまった。ライブから数日経つが、まだまだ余韻から抜けきれそうにはない。勢い余って、人生初のレポまで書いているくらいだから(笑)

これからも、しばらくはこの世界観にどっぷり浸かっていようと思う。




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