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生きていくには不便すぎる性格の私が、楽しく生きれるようになるまで。

新卒で入った会社をクビになった。
正確には「自己都合退職」という形で辞めた。
けど、部長からは辞めてほしいと言われて辞表を書いたので実質クビである。

精神科病棟のベッドの脇にある小さな机で、退職理由を書いた。30分くらい試行錯誤して理由を真剣になって考えているのを見て、兄は「どうせ辞めるんだからテキトーに書けよ。そんなんだからお前、精神疾患になるんだぞ」と言った。たしかに一理ある。

小中高とけっこう楽しくやってこれた私が初めて鬱病を発症したのは高校3年生の時。いきたい進路ではないところを目指し受験勉強をするストレス。急に友達や彼氏と会えなくなった孤独感。家族とうまくいかない感じ。そのどれもが合わさって突然発症。
病院に連れていかれて、なんとか回復。

その後は大学受験をあきらめ、ファッションの専門学校へ入学した。
病気も完全に治ったと思っていた。順調にまた歩き出したと思っていた。
コンペで賞だってとったし、それなりに良い会社に就職した。ちっぽけだけどそうやって自分を保っていた。
会社に入ってみたら気づいた。私は仕事ができない。圧倒的にできない側の人間だった。
そして直属の上司にも嫌われてパワハラっぽい感じの言動を受けていた。
初めて挨拶した時に「あなたより他の子が部署に入ってきてほしかった」と言われた。
しょっぱなから嫌われた。
電話で取引先の人が笑わせてきたので「ふふっ」と笑ったら、上司は「仕事中になに笑ってんの」と私を叱った。
4月に入社。5月には胃に穴が開いていた。
ストレスだった。ストレスは人を壊す。

気づいた時には、精神科へ強制送還。私は入院していた。そう。そして会社を退職した。

デザイナーの仕事は楽しかった。ずっと続けたかった。でも辞めさせられた。入院歴あり。精神疾患で体調を崩すのは2度目。
この時、もうどこにも就職できないと思った。

細々と一人で司法書士事務所を経営している父が「家の手伝いでもしなさい」と言ってくれた。
狭いごちゃごちゃした書類だらけの古いアパートの一室を借りた事務所の中で、ぼんやりと債務整理の計算とかをしたりしていた。

「このまま結婚でもできたらいいな」と思った。というか、それくらいしか明るい未来が見えなかった。気づいたら週4でコンパしたり、結婚相談所に入ったり、なんだかんだお金を費やして、ようやく出会った人と傷つく恋愛をしていた。

私は20代後半。親は高齢。資格を持っている親がこの仕事を辞めることになったらどうなるんだろう。親の仕事を継ごうと思って資格の勉強もしてみたけれど、続かなかった。勉強を辞めた私に彼氏は「見損なった」と言った。その後別れた。

崖っぷちすぎる。
なにか行動を起こさなきゃいけないと思った私は、一念発起して就活をすることにした。
私が入社することになったのは、ベンチャー系アプリゲーム会社。入社が決まった時めちゃくちゃ嬉しかったのだが「初めはバイトからね」と言われた。
私の経歴なら仕方ないよね。そう思った。
私はここでもそんなに役には立たなかった。と思う。プレスリリースを書いたり、レビューサイトにゲームを載せてもらうためにやり取りをするのは楽しかったけど、どうやら経理だったりが凄まじく苦手だった。
時給1000円。一人暮らししていた私の貯金はみるみる減っていった。ちなみに一人暮らしをしているのは実家とうまくいっていなかったから。しんどい。生きるのがしんどかった。

辛い時は本を読んだ。本の著者はいつだって前向きだから。うつ病で会社を退職したが、その後活躍したという人の本を読んだ。安藤美冬さん。この人だったら私に会ったらなんてアドバイスしてくれるのだろうか。なんてふと思った。

なんかもう崖っぷちだった。だから今思えば無茶な行動をしたと思う。インターネットで安藤美冬と検索して会社のお問合せホームからメールをした。

件名「人生について悩んでいる女です。相談にのっていただけませんか?」
そして本文に自分の置かれてる状況や5分でもいいから会ってほしい。みたいなことを書いた。

絶対に返ってこないと思っていた返事。
返ってきた。

「この日にイベントで登壇するので、その日によかったらいらしてください」

とのことだった。

返事が返ってきたことで私はびっくりしたのとテンションが上がって変な感じになってしまって、他にも会いたい人に片っ端からメールを送った。もしかしたら返事が来るのかもしれないと思った。

もちろんたくさん断られた。でもたくさんの人が温かい返信をくれた。そして会ってくれた。

東京に10日間行き、30人程の方に会ってアドバイスをもらった。起業家の家入一真さんは「いつか病気をみんなに話せるようになるといいね」と言ってくれた。そして「君みたいな人は東京にくるといいよ」と言ってくれた。
他にも名前は出せないけれど、今でも応援してくれる大切な人に出会えた。

なにも守るものがなかった私は、貯金4万円握りしめてトランク1つに荷物を押し込んで東京行きの夜行バスに乗った。仕事も家も決まっていなかった。

とりあえずお世話になる予定だったシェアハウスに行った。そこで「申し訳ないけど、2週間までしか泊めてあげれないんだ」と言われる。そりゃそうだ。ずっと居つかれちゃ困るよね。

その時見つけたのがクリエイターシェアハウスTOLABL、家賃0円の住人募集いうサイト。無料で暮らせる住人を数人募集していた。すぐさま応募して、これに賭けた。どうしても受かりたかった。

次に泊めてくれるシェアハウス探しと職探し。就職するのは無理なのかも…と思っていた私は安易な考えでライターに応募してみることにした。ガジェット通信のライター募集をみてメールする。面談に漕ぎ着ける。
人生がうまくいかなくて勢いで東京に出てきた話をしたら、なぜかウケて合格した。
なんか面白いから一つ書いてみてよと言ってくれた。

その頃にはシェアハウスを転々と5つ渡り歩いていた。長く滞在するわけにはいかないので、次をみつけては居候させてもらう感じで渡鳥みたいに生活した。

そうこうしてたら、めちゃくちゃラッキーなことにシェアハウスがテーマのラジオ番組に「シェアハウスを渡り歩く女」として、出演できることになった。

この頃「20キロ歩いても疲れないパンプス」という商品をPR記事のために20キロ歩いた。初めての記事が掲載された。

0円シェアハウスの面接では「家がないんです。なんでもやります!」と猛烈にPRした。

オーナーは100人くらい面接したなかの4人に選んでくれた。あとでなんで選んでくれたか聞いたら「勢いがすごかったから」と言われた。勢いって大事だ。

ゲストで呼んでもらったラジオ番組のMCになれた。わたしMCやりたいです!とアピールしておいたところ、たまたま前任の方が辞めるらしく声がかかった。ラッキーすぎる。

なんか急にラッキーが続いてハッピーになった感じがするけれど、この頃は鬱病がひどかった。メンタルを病んでガジェット通信も辞め、バイトしたりラジオやったり寝込んだりしながら生きた。東京で友達ができたのが救いだった。

東京に来て、前よりは息がしやすくなった。とはいえ、やっぱり私は鬱気質だった。すぐ寝込んでなにもできなくなって自分が嫌になって泣くことを繰り返していた。

この頃、勇気をだして自分の病気をカミングアウトした。

その矢先に、公園で寝泊まりしている男の子と出会って結婚した。彼の生きづらそうなブログを読んで共感したのだった。私も病気の話を彼にすっと話せた。出会ってから初めてのデートの日に籍を入れた。交際0日婚というやつだ。

弱小な二人が力を合わせたら微力でも力になる。と思ったのだが、半年で別れてしまった。
原因はいろいろあると思うけど、ここでは書かない。

0円シェアハウスはもう期限が終わりそうな気配がしていて、東京に住み続けるのは無理かもしれないと思っていた。それに、離婚したことで気分を変えたかった。

そんな時に、新潟県十日町市の移住イベントにたまたま参加した。十日町で築100年の古民家でシェアハウスを運営しているハルさんという人達に出会った。面白そうなところだった。「明日、十日町に帰るから、明日だったら車で乗せていってあげるよ」と言われたので、連れて行ってもらうことにした。そのまま1週間だけ、2週間だけ…と思って滞在していたら1ヶ月経った。自然豊かな暮らし、賑やかな暮らしが楽しかったから。そしてそのまま、移住を決めた。

町のラジオ局で働かせてもらいながら、ふわふわと生きた。みんなで料理をしたり、川で遊んだり、星を見たり、そんなことをしていたら、少しだけ体調が落ち着いてきた。
気持ちの波がなだらかになってきた。

そんな頃、シェアハウスに仕事で短期滞在しにきた男性を好きになった。お互いバツイチ同士で意気投合した。話していると笑いが絶えなくて本当に楽しいひとだと思った。

東京〜新潟間の半年間の遠距離恋愛を経て、東京の彼の自宅に転がり込んだ。細々続けていた新潟のラジオの仕事は辞めてきた。

「絶対就職できるよ、大丈夫」という彼の言葉に不安を覚えながら後押しされ、就活した。不動産会社に就職した。なんとなく面白そうな人だからという理由で私をとってくれたものの、やっぱりうまく仕事ができなくて、だんだん鬱っぽくなって最後にはクビになった。

その後、私は廃人のように寝込んだ。

同棲していた彼は、何も言わずそっとしておいてくれた。もう無理に働かなくてもいいよとも言ってくれた。

この言葉に救われた。こんな私を大切にしてくれる彼を私なりに一生大事にしようとこの時誓った。

この頃、自分に無理なくできる仕事を探そうと思い、コワーキングスペースの受付の仕事を始めた。受付は一人で任される。気づいたのだが、私は一人でやる仕事ならうまく出来ることがわかった。

この頃、友人がSNSで恋愛記事のライターを募集していた。応募してみたら、意外にも受かってライター業を開始した。

そして、その彼と結婚した。結婚式とかは挙げずに市役所に婚姻届をひっそり出した。新潟から友達が駆けつけてくれた。私はけっこう幸せ者だと思った。

この頃、自分を変えたい一心で努力を始めた。ライター仲間の飲み会で、やんわりデブ扱いされたことで翌日泣きじゃくったのがキッカケだ。自分を変えたくて、ダイエットを始めた。着痩せする服を調べたり研究したりした。

そうこうするうちに、プラスサイズモデルという職業を知った。体の大きなサイズのぽっちゃりモデルの仕事があるらしい。

「やってみたい」そう思った。
憧れている女性に相談したら、後押ししてくれた。勇気を出して応募した。

流行病が蔓延してオーディションが中止になった。ついてない。

でも諦めきれない。Instagramに初めて自分の顔写真を載せた。プロフィールに「プラスサイズモデル」と書いてみた。

その3ヶ月後には初のモデルの仕事をした。モデル事務所に受かったのだった。

太っていることか悪だと思っていた私の考え方を、プラスサイズモデル事務所の代表の桃果愛さんはガラリと変えてくれた。

事務所のモデルさん達はとても優しくて可愛かった。そう思えた時に、じゃあ私も私自身を可愛いと思ってもいいじゃないかと思えるようになった。

セパレートのお腹を出すタイプのスポーツウェアを買って着てみた。モデル仲間は誰も笑わなかった。

太っていることをいじられて、「あはは」と笑う癖が染みついていた私には、最初は慣れなかった。でも徐々に私のマインドは変わっていった。

モデルの仕事は何故だか楽しくやれた。
自分にとって天職だと思った。

やっと生きてて楽しいと思えるようになった。

もちろん精神疾患は完治していないけど、寛解といって波がゆるやかな、少し落ち着いた状態にはなった。

「いつか幸せになりたい」と夢みていたけれど、いつかを待っていたらダメなことを知った。

現在の一瞬一瞬を楽しいことで満たすこと。苦手なことを極力避けること。自分を大切にしないひとから遠ざかること。自分を大切にしてくれる人と過ごすこと。そのままの自分をダメなとこも含めてまるっと受け入れること。

そんな感じのコツを掴んで、今なんとなくだけど楽しく生きている。

はまゆっこ

読んでくれて嬉しいな。ありがとう!