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21歳、1000万円の借金を返したことが揺るぎない自信になった

僕はNOT A HOTELという会社を経営しています。

いまの会社は2回目の起業。初めての起業は23歳のとき、「アラタナ」というEコマースの会社です。創業8年で、ZOZOグループにジョインさせていただくまでに成長しました。

「順風満帆ですね」と言われることもあるのですが、実はぜんぜんそんなことはありません。むしろ若いころは世間知らずで、失敗ばかりしてきました。

人生でいちばんの地獄を見たのが、21歳のとき。

開業したカフェが潰れて、1,000万円の借金を抱えたのです。27%というめちゃくちゃな高金利でした。

あの経験がなかったら、たぶんいまの僕はいないでしょう。今回は、僕の人生を変えた「借金」の話をします。

入社3ヶ月でリコーを辞める

僕は20歳で高専を卒業したあと、リコー(RICOH)にエンジニアとして入社しました。

ところがそこを、3ヶ月で辞めてしまったんです。

リコーに入社したのは「GRデジタル」というカメラが好きだったから。僕は、当然その「GRデジタル」の部署に入れるものと思っていたんです。しかし、配属されたのは別の部署でした。

それで、次の日に辞表を出しました。

辞表を出した翌週はボーナスが出る日でした。僕は「ボーナスをもらっちゃったら、辞められなくなるな」と思ったのです。

いま考えたら、ボーナスをもらってから辞めればよかったと思います。でも、当時はなにもわからなかったし「さすがに人としてどうなのかな……」と思って、いそいで辞めてしまいました。

親には「なにを考えてるんだ」と大目玉をくらい、ほとんど勘当みたいな状態になりました。

それからしばらく実家には帰れませんでした。借金ができたときも、自分のプライドが許さなかったこともあって、親を頼ることはできなかったのです。

展望なんてなかった

リコーを辞めた先の展望は、ほとんどありませんでした。

夢や目標もなく「とりあえず、好きなことがやりたい」というぐらいです。昔からファッションが好きだったので、地元の洋服屋さんで働かせてもらうことにしました。宮崎の「wagon(ワゴン)」というお店です。

そこで働くうちに「商売って楽しいな」と思うようになりました。洋服を売るのもすごく楽しかったし、友達もたくさんできて。

そのうちに「自分でお店でもはじめてみるか」と思うようになりました。友達みんながお店に来てくれれば、なんとかなるんじゃないか、と。

リコーを辞めるときに、カード会社からけっこう無理してお金を借りていたので、そのお金でカフェを開業しました。

21歳で抱えた1000万円の借金

本当にこぢんまりとしたカフェバーでした。駅の近くで、4席ほどしかありません。

友達のみんなは毎晩、お店に来てくれていました。でも、みんなお金がなかったので、僕は「タダでいいよ」と言ってお酒をふるまっていたんです。来てくれてうれしかったし「カッコいいところを見せたい」という気持ちもあって。

そんなことをしてたら、たった6ヶ月で潰れてしまった。

残ったのは、1,000万円の借金だけ。

内装費などの必要なお金は、カードローンでひっぱれるだけひっぱっていました。それでもなんとかなる気がしていたのですが、気づいたら借金が膨れ上がっていた。それは、金利が27%もあったからです。

恥ずかしながら、そのときは「金利」なんてよくわかっていませんでした。よくわからないまま借りてしまったんです。お店が潰れて、初めて金利の勉強をしました。

計算してみると、金利だけで当時の僕の給料よりも高かった。びっくりしました。

このままだと、毎月の給料をぜんぶ返済にあてたとしても、借金はほぼ永遠になくならない。状況が飲み込めた僕は、ようやく事の重大さに気がつきました。

「これ、もう一生返済できないじゃん」と。ゾッと寒気がして、震えました。

21歳にとっての1000万円なんて、もう無限のように思えるんです。僕は、ふと横を通り過ぎた高級車をみて「いま当たっておけば、治療費もらえたかな」と思うぐらい、追いつめられていました。

ポケットに1万円札を押し込まれる

リコーを辞め、怒っていた両親とも仲直りして時々家に帰るようになりました。お金がなく、ご飯が食べれるだけでありがたかった。僕は借金の事も言わず明るく振る舞い、順調だよと。

でも母親は気づくんですよね。

帰り際、親父にバレないように1万円をポケットに詰めこまれて、「ご飯は食べなさいよ」と耳元で言われました。

僕は情けなくて帰り自転車をこぎながら声をだして泣きました。家に帰ってくちゃくちゃの1万円札をみて、これはなんとかしなくちゃと覚悟を決めるのです。

「インターネット通販やらせてください」

それからの1年間は、まちがいなく人生でいちばん働いた期間です。

借金は、なにがなんでも1年で返そうと決めました。「そうじゃないと俺の人生、このまま借金を返すだけで終わる」と思ったからです。

といっても具体的な策があったわけではなく、ひとまず洋服屋「wagon」でふたたびアルバイトをすることになりました。

ただ、ふつうにバイトだけしていても、借金はとうてい返せません。

それで僕は、社長に「インターネット通販をやらせてください」とお願いしました。オンラインショップで服を売ろう、と思ったんです。

当時は2005年。ちょうどZOZOTOWNがオープンしたころでした。

「ネットで洋服なんて、売れるわけないだろ」と言われていた時代です。そんななかで、ZOZOTOWNは規模感もすごいし、サイトもCGの街みたいになっていて、すごくかっこよかった。確信はありませんでしたが、うまくいけばすごいことになるかも、と思いました。

ただ、本当はECサイトなんてまったく作れませんでした。

たまたま高専で少しウェブを習っていたので「僕、高専出身なのでインターネットできます!」と、嘘をついてお願いしたんです。「いいよ、やってみて」と言われてから、慌ててどうしようか考えはじめました。

友達と一緒にサイトをつくる

そのときに助けてくれたのが、高専の同級生で「アラタナ」の共同創業者である穂満(ほまん)くんでした。

穂満くんは高専のなかで、いちばんインターネットに詳しかったんです。僕は、地元のシステム会社に勤めていた彼に「一緒にやってくれ」とお願いしました。それで、こっそりサイト作りを手伝ってもらったんです。

いまはサイト作りをサポートするツールもいろいろありますが、当時はそんなものありません。週末や夜中に、専門書を読みながら一緒にサイトを作っていました。

僕は借金に追われていたので、彼には報酬もまともに払えなくて。ご飯をたまにおごったりして、ごまかしながらやっていました。彼は本当にいちばんの恩人です。

10万円のダウンジャケットが飛ぶように売れた

「ネットで服が売れる」という確信はありませんでした。失敗する恐怖よりも、借金の恐怖が上回って、突き動かされていたという感じです。

でも、売れたんですよね。

ちょうど裏原ブームというのもあって、順調に売上は伸びていきました。当時は10万円のダウンがネットで飛ぶように売れるとは誰も思ってなかったと思います。

「インターネットって、すげえな」と思いました。

借金に追われる生活のなかで、それだけは、なんだかすごく夢があって。インターネットで洋服を売ることの楽しさと、ビジネスの可能性を感じた瞬間でした。

夜は結婚式のアルバム制作

もちろん、インターネット通販だけでは借金は返せません。ほかにもやれる仕事はぜんぶやっていました。

ありがたかったのは、結婚式のアルバムをつくる仕事です。

カメラマンさんが撮った写真を受け取って、レイアウトして、アルバムを作ってデータを納品する。結婚式後の夜中に写真を受け取って、次の日の朝までにアルバムを仕上げていました。

そうすることで、24時間はたらいて、稼ぐことができたんです。

昼は洋服屋でサイト制作のアルバイト。夜に写真をもらって、朝までアルバム制作。

1年間、ほとんどベッドで寝た記憶がありません。毎日デスクの上で寝起きしました。家賃も払えないので、当時の彼女の家に住まわせてもらって。

なんとかして借金を返さなきゃいけない。なんとか稼がなきゃいけない。その一心でした。

口コミで仕事が舞い込み、月収100万円に

「wagon」のホームページ制作は、時給でやっていました。ネットで商品が売れたからといって、取り分があるわけではありません。

ただ、成果が出たことで「wagonにインターネットできるやつがいるよ」という噂が、商店街じゅうのお店に広がったんです。「うちのもやってよ」と、他のお店のサイト制作もやらせてもらえるようになりました。

そのホームページ制作で、月30万円ぐらい稼ぎました。あとはwagonのアルバイトで、月30万円ぐらい。結婚式のアルバム制作の仕事は、1冊あたり5万円もらえます。それを月に10本ほどやって、50万円ぐらいになります。

月収は100万円以上に。

借金がなければ、年収1,200万円以上。21歳の僕にできる精一杯でした。

1年で借金を完済。大きな自信になった

そして1年後、僕は借金を返し終えました。

借金を完済したその日に、僕はカードローンのカードを切り刻みました。

ものすごい解放感。人生で、あれほどホッとしたことはありません。

あんなに働いて、絶対に無理だと思った借金を返せた。それは僕にとって、大きな自信になりました。大企業でもカフェでもうまくいかなかったけれど、はじめて自分に自信が持てたのです。

「wagon」はいまも宮崎の人気店。宮崎に帰るたびに、よく服を買いに行きます。

「wagon」だけでなく、いま商店街に残っているお店は、当時のお客さまだったところばかりなんです。これは僕のちょっとした自慢です。

なにが起こっても、あの1年間よりはマシ

その後は、もういちど起業することに決めました。

あれだけ痛い目を見たのにまだやるのか、と思うかもしれません。でも「店を潰して、そのまま終わり」というのはカッコ悪い気がして。

なにより借金を返したことで「これだけがんばって働けば、なんだってできる」という自信を持てました。

それで、穂満くんと一緒に会社をつくりました。「アラタナ」の創業です。事業はEコマースに特化したテックカンパニー。もともとやっていたウェブサイト制作の延長線上で起業したかたちです。

起業して最初の1年は、ふたりとも月給10万円ぐらいでした。それから1年半で100件ぐらいまで仕事が増えて、それでも月の売り上げは100万円程度。そこからずっとやり続けて、徐々に成長していって……。

8年で、ZOZOグループに入ることができました。

もちろん大変なことはたくさんありましたが、あの借金まみれの1年間よりつらかったことはありません。

あれ以降、僕のなかの「怖い」とか「無理かも」と感じるスイッチが壊れてしまった気がするんです。でっかいハンマーで思いきり叩かないと、作動しなくなってしまいました。

たいていのことは「あのときよりはマシだな」と思える。

だから、挑戦し続けることができたのです。

挑戦しつづければ、夢は自然と大きくなっていく

カフェが潰れたとき、僕には夢も目標もありませんでした。

しかし起業してからは、だんだん夢や目標が大きくなっていきました。年商1億円をめざす。上場する。宮崎に1,000人の雇用を作るーー。

ZOZOで前澤さんと出会って、スケールの違いを目の当たりにしてからは、さらに大きな夢を描くようになりました。

やっぱり僕は「絶対に無理だ」と言われるようなことをしたいんです。

15年前、洋服のECサイトを始めたときは「ECで洋服なんて売れない」と言われていました。

NOT A HOTELをリリースしたときも「パースで家が売れるわけない」と言われました。

みんなが「無理だ」と思うところにチャンスはある。それを実行できるのは、変な話、ちょっと恐怖のタガが外れている人なのかもしれません。

不安じゃなければチャレンジが足りない

ただ、不安がまったくなくなったわけではありません。

大風呂敷を広げておいて「うまくいかなかったらどうしよう」と、いまも毎日不安になります。不安でいまだに寝られないんです。1日3、4時間ぐらいで、どうしても起きてしまう。

起業家には自信家が多いようにみえますが、たぶんみんな、不安を人に見せていないだけだと思います。

むしろ、ぜんぜん不安にならないのなら、それはチャレンジが足りていないということです

起業家はやはり、少々びびっていないといけない。びびるくらいのことをしないといけません。

僕も起業後は、無理をして大きい案件を取りにいっていました。簡単にできる仕事ばかりやっていたら、きっとなにもできなかった。無理が自分たちを成長させてくれたんです。

いまも、まだ完成していない事業に、18億円も投資が集まっています。やっぱりすごく不安です。

でも、僕には不安であり続ける責任があります。不安がなければ、むしろ人として危ないと思うから。

つねに挑戦し、つねに不安でいること。それを両立できた人だけが、大きな夢を叶えられると信じています。


NOT A HOTELでは、このハードシングスに一緒に挑戦する仲間を募集しています。興味をもっていただけた方、ぜひ詳細をご覧ください!


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