Next SPARKLING!!
こんにちは、こんばんは。はまーです。
今日起きた事と、今までの僕が、母さんと一緒に歩んできた22年の道のりを忘れないように、これらの言葉を紡いでいきます。
先に読んで下さっている方に向けて結論を書きたいと思います。
それは、今両親などの家族が健康の方は、気楽に親に連絡を取って欲しいということです。
きっといつの日かは、自分か親のどちらかが先に旅立ちます。
だからこそ、別に僕の話をそんなに重くとらえずに、「たまには会いに行くか~」とか、「たまには連絡するか~」ってなってくださると僕は嬉しいです。
その経験がいつかの将来の自分に支えになること、僕が保証します。
そして子供がいる方でこれを読んでいる人へ。
子供より先に死ぬのはある種の摂理だとは思いますし、子どもが自分より長く生きるのは最高の親孝行だと私は考えています。
だからといって、今から「自分がもしものことがあったときの為に…!」って遺書を認めろ!とか、滅茶苦茶過激なことを言いたいわけでは無くて。
今はいつか来るお別れ何てどうでもいいですから、貴方のそのお子さんに心から向き合って欲しいです。
言われなくてもそんなことやるわ!って思いますよね、知ってます。
でも、改めて僕の方から伝えたい。
変な言葉かもしれないけど、向き合ってくれて、信じてくれてありがとう、って。
先に結論を呈示したのは、今からの文章がどこまでも自分の為の言葉で、ひとつの旅路の答えに過ぎないからです。
なので、読んだとしてもわかるのは、僕と母さんの物語だけです。
貴方の人生の役には立たないかもしれない。
でも、それでも母さんのやってきたことを僕は伝えたい。
そして自分はそのことに向き合いたい。
なので、今から言葉を紡いでいきます。
先に注意書きとして書いておきますが、「2023年11月30日12:30」の章で、明確な人の死に対する表現が出てきます。
僕も読み返して思わず胸が詰まるような思いになるような言葉たちです。
でも、今日この日の事絶対に僕は忘れたくないから感じたまま言葉を紡いでいます。
なので、苦手な方はその章を丸ごと飛ばすか、「覚悟」して読んでください。
意味もなくそんな表現はしていませんし、その後に僕にとって大切な気づきを書いているので、安心して読み進めてください。
暗いまま終わらせるのは僕の信条では無いので。
敬愛する推しの言葉を借りるのなら、「ついてきたい人って思う方はついてきてください」。
よろしくお願いします。
母さんと見てきた夢
2000年12月15日、父さんが「ガッツ石松か?」と笑いながら言った子供が世の中に生を受けました。名前は父方の曾祖父母から一文字ずつ拝借して、「修弥」と名付けられました。
そこから健康に成長していくのですが、舌が短く言葉をうまく話せなかった4歳の自分は、養育センターに通っていました。その時、養育センターに行くお金を工面するために畳の部屋で母さんが内職をしていたのを今でも覚えています。
言葉を上手く話せない私は勿論幼稚園で浮いて、誰からも一緒に遊んでもらえなかったらしく、母さんがお菓子とかを持って行って一緒に遊んでくれるようにお願いしに行ったこともあったとのことでした。
結局舌の短さが原因だったので、小学校一年生の時に勝手に話せるようになったのですが、当時の母さんに対して幼稚園の先生は、
などという言葉を投げかけたらしく、僕と妹の見えないところで泣く日々だったそうです。
小学校に上がっても相変わらずの問題児で、何度小学校に母さんが呼び出されたか分からないくらい迷惑をかけたのを覚えています。
そんな僕に対して、せめて何もできないなりに勉強だけは出来るようにと、チャレンジ1年生や2年生をやらせて、学力だけは人並み以上に成長していきました。
そんな小学2年生の時、転機が訪れます。
ふとTVでやっていたのは、「スーパードクター」に関するドキュメンタリーでした。
「神の左手」を持つ「ラストホープ」福島孝徳先生。
鍵穴手術を開発し、難しい脳腫瘍摘出手術でも魔法のように成功させていく。
そんな姿を見て、興奮しながら母さんに言いました。
「母さん、僕医者になりたい!!!」
母さんは笑いながら言いました。「修くんにできるのかなあ?笑」って。
でも、その後に続けて言いました。
「お医者さんになるんだったら中学校受験しないとね」
って。
そこから広島の大手塾に入って成績がめきめき伸び、広島で一番賢い男子校に受かりました。
受験の結果、朝の10時発表だったらしくて、当時の僕は「家帰るまで絶対に見ないでよ!」って、母さんに伝えていたのですが、そんなこと守るはずもなく。
朝の10時に結果を見てひとりで大号泣した話をよく聞いていました。
まあ、当時の僕は家帰って母さんに「見てないよね!?見てないよね!?!?」って何回も確認して、母さんが「見てないよ」っていう言葉を馬鹿みたいに鵜呑みにしたんですけどね。
母さんが本気で嘘をつくと、どうやら僕は見抜けないらしいです。
我が家の家系からその男子校に受かった事、本当に奇跡みたいなんだよって、いつも母さんが僕に話していました。
一応その学校は広島での名門校で、父も母も所謂普通の大学出身だったので。
母さんと僕の夢、「医者になる」という夢の明確な第一歩はこの中学合格から始まったのだと思います。
中高一貫校だったので高校受験は無かったのですが、中高六年間ずっと過保護というかなんというかw
僕の友達を家に呼ぶってなれば、「え!!絶対安い奴出せないじゃん!!」って言いながら僕が食べた事ないような高いお菓子出したり。
授業参観があれば必ず、「〇〇くん、元気だった!?」っていろんな人に話し掛けに行ったり。
だから卒業した今でも母さんと何故か個人的に僕関連で連絡を取っている友人がいますし、僕の友人は基本的に母さんの事を知っているという謎の状況になっています。
でも、こんなにも多くの人に慕われていたことが母さんの美徳というか、素敵な部分だったんだろうなって思います。
「医者になる」という夢を明確に意識しだしたのは高校一年生の時でした。広島大学医学部に行くか、それとも関東圏の医学部に行くか。
ずっと悩むような日々でした。
当たり前ですが、関東の医学部の方が人気が高い分難しいですし、何よりも慣れ親しんだ広島を出ることも正直怖い部分もありました。
この頃出逢った「ラブライブ!サンシャイン!!」というアニメをきっかけに僕は「LIVEに行きたい!」という不純な動機で関東(千葉)の大学を受験することを決めます。
この選択が僕にとっての地獄の始まりでした。
身の丈に合わない大学を志望した結果、高校在学中はずっとE判定。
一次試験と二次試験合わせて100点足りずに浪人しました。
その時の事はここに書いたので、今は詳しく書きません。
でも、追加で話すことが二つあります。
一つは落ちたときの事。
僕が自信ありげに(虚勢だったのですが)、絶対受かってる!と母さんに伝えていた結果、落ちたとき母さんが相当ショックを受けて。
2019年6月ぐらいまでずっと引きずっていました。
家に帰ってもお互い上手く話せず、こんな環境で成績は伸びるはずもなく。
負の循環でした。
母さんがこのままじゃいけない、って思ったのか嘘でもいいから前を向こうって、僕の前で何時ものように明るく振る舞う様になりました。
すると、6月の模試から僕の成績はずっとB判定になりました。
僕が当事者でしたが、支える側として明るく振る舞ってくれた母さんには、本当に感謝しかありません。
もう一つは受験をした日と合格した日の事です。
浪人の時、私立としては東北医科薬科大学、国立は懲りずに現役で落ちた千葉大学医学部を受けることにしました。
実はこの国立の出願、僕ではなく母さんが勝手に千葉大に出してたのも、今になってはいい思い出です。(当時はアホ程焦りましたw)
私立の医学部の学費は六年間で2000万から4000万。
そんな大金を払う経済的余裕は我が家にはありません。
ですが、東北医科薬科大学の特待生(A方式宮城県)では、3400万の学費の内の3000万を負担してくれるということでした。
私の条件は、このA方式に、「千葉大学受験前に」合格することでした。
もし単に「合格」するだけなら、そこまで難しくはありません。何故なら、合格しても実際にA方式を利用して東北医科薬科大学に行くのは1割にも満たないから、繰り上げ合格しやすいからです。
ですが、千葉大学受験前に、つまり「滑り止め」として合格するためには、純粋な意味で「合格」しなければなりませんでした。
倍率は1600人中僅か30人。53倍の世界でした。
この東北医科薬科大学の一次試験は大阪の会場で行われたのですが、そこで母との印象的なエピソードがあります。
広島から受験日の朝に向かっても間に合わなかったため、ホテルに前泊して当日を迎えたのですが、朝食バイキングの時にみそ汁を持っていた私に後ろから外国人の方がぶつかってきて、前の人のジャンパーにみそ汁を掛けてしまいました。
当然ぶつかってきた人が何かするのかなって思っていたのですが、その人は僕を一瞥した後何もしないままその場を去っていきました。
その後自分は何もしてないのに、その人に謝りながら床に膝をついてみそ汁を拭きました。
そんな自分が惨めで、情けなくて。
浪人でただでさえ無かった自尊心が粉々に砕け散りました。
これから受験なのに。
こんな些細なことで僕の心はボロボロになりました。
思わず泣いてしまうぐらい。
そんな僕に対して、母さんは言いました。
って。
この言葉に凄く救われて、こんな自分でもまだやれるんだ、って思えて。
受験会場に向かったのを覚えています。
いつも、困ったときには母さんが支えてくれてたんだなって。
2020年2月14日、16:00の合格発表。
結果は「合格」。
誰よりも真っ先に電話したのは母さんでした。
その時泣きながら伝えました。
「母さん、俺やっと医者になれるよ」
って。
お互い苦しい一年間を乗り越えて、やっと「合格」という夢への、未来へのチケットを手に入れた瞬間でした。
そして、東北医科薬科大学に行く気満々だった自分が千葉大学医学部の前期受験の日を迎えます。
去年、お互いに泣き別れみたいな感じで受験会場前で別れたので、今回は「それじゃダメだ!」ということで、他の人からしたら笑えるような儀式をして入りました。
こうして、覚悟を持って受験会場へと歩みだしました。
受験が終わり、2020年3月9日、13:00。
千葉大学医学部の合格発表の日です。
当時の僕の心境ですが、僕は上にも書いた通り本気で東北医科薬科大学に行くつもりでしたし「落ちても絶対に凹まない」、って母さんに伝えていました。
まあ、母さんは一ミリも信じてくれなかったのですがw
家のWifiが重く、「結果見れないなあ」、とやっていた僕に13:10頃母親からの電話がかかってきました。
この「何が?」というセリフに思わず母さんはブチギレ。
人生で一番レベルで
「『何が?』じゃないわよ!!!!!!!!!」
って本気で電話越しで怒鳴られましたw
母さんはどうやら僕が落ちてショックを受けてるから連絡が無いんだと思ったらしく、職場でこっそり合格発表のサイトを見たらしいです。
あれだけ落ちてもショックを受けないって伝えていたのに、気になってみるところ、母さんらしいなあって今なら思います。
そこに乗っていたのは、何故か僕の番号。
多分母さんの人生の中でも混沌の極みだった瞬間だと思います。
なんで、落ちてると思って見たサイトに、修くんの番号が???って。
理解できないので、そりゃ本人に確認しに行きますよね。
で、そんな本人から返ってきた答えは「何が?」ですからねw
あんなに怒った母さんは初めて見ました笑
面白い運命だと思いませんか?
中学受験も大学受験も、一番最初に僕の合格発表を見たのは、僕自身ではなく、母さんなんですよ。
だから、受かったんだと、本気で思います。
実は医科薬科の話には少しだけ続きがあって。
千葉大の合格発表の前までに、入学金の100万を納めなければなりませんでした。
しかも、その100万は3000万の負担の中に入っておらず、入学を断ったら帰ってこないお金でした。
千葉大学に受かった僕ですが、その100万の事が気がかりで、母さんに医科薬科に行くよって伝えました。
でも母さんは、それを強く否定しました。
「修くんの人生に比べたら、100万なんてどうでもいい」
そんなわけありません。
我が家にとって100万円の負担は決して軽々しいものではなく、無理して出したお金だと理解しています。
それでも、僕の本当の願いを聞き入れてくれて、千葉大に行かせてくれた母さんの事、本当に感謝しています。
そして、今僕は千葉大学医学部で勉強しています。
母さんと見てきた夢は、叶える寸前まで来ていました。
2023年11月14日
この大学四年間、色々ありました。
広島を出て一人暮らしをし始めたことで、母さんって凄いんだなあって色々感じました。
洗濯掃除に家事、中高の時は自分を含め四人分の弁当作り。それに加えて昼はアルバイト。
母さんの自由にできる時間はほぼなくて、ご飯作った後の21:00-24:00は気絶するように寝てて、次の日の朝5:00起きみたいな生活をずっとしてました。
母さん自身の人生はあんまりなかった事は正直後悔のひとつだけど、その分僕と妹にずっと向き合ってくれた、自慢の母です。
そんな母さんは僕が2020年9月に千葉に引っ越すと途轍もなく病んでしまいます。僕の所為でw
そんな時に「King & Prince」の旧メンバーの平野紫耀くん(この表現で不快になった方がいたらすみません…)に出逢い、僕と同じようなオタクになりました。
まあ、昔は「光GENJI」のガチファンやっていたので旧「ジャニーズ」に沼っているのは母さんも子供の時から変わってないようです。
僕自身も、ダブルブッキングをしてとある人に怒られてから絶対スケジュールアプリに予定を書くようにしていますし(今でもずっとお陰様で出来ています)、10年やっているバレーボールで「先輩」として後輩に優しい言葉で教えれるようになってきました。
この間、母さんと僕の人生が全く交叉しなかったか、と言ったらそういうわけでは無く、「King & Prince ARENA TOUR 2022 ~Made in~」の横浜公演を何故か僕がチケット当てたので連番したり、
千葉に来ては、「Lovin' you」(合ってるか分かりません)のMVの聖地が千葉にあるんだ!!って言いだして、一緒に回ったり、お店の中で「紫耀くんがやったように飲み物持ってきて!!!」と相変わらず母さんのペースで引っ張りまわされ続けたこともありました。
そんな日々を重ねて迎えた2023年9月。OSCE(医学部生が採血や問診などの「実技」をできるかどうかを試される試験です。)が9月9日にあった僕は、その試験前に久しぶりに広島に帰ることにしました。
すると、実家のアイロン台の上に見慣れない診察券が落ちていました。
純粋に疑問に思った僕は、「これなに?」と母さんに問いました。
すると母さんは「子宮の病気でね」って言ってきたので、そこまで致命的ではなく年齢的にも子宮筋腫かな?って思ったので「子宮筋腫なの?」って尋ねました。
でも返ってきたのは曖昧な返事でした。
違うなら否定すればいいし、合ってるなら肯定すればいい。
なのに何も答えない。
不審に思った自分は母さんに真剣に尋ねました。
「何か隠してない?」
って。母さんは答えました。
「隠してないよ」って。
中学受験の時もそうです。母さんが本気で嘘をついたら、僕は分からない。
その時に僕が見抜けなかったことがすべてだと思いますし、運命だと思います。
そして何よりも、母さんの愛なんだと思います。
そのまま月日は流れ、2023年11月14日。残りひとつの試験を除き、全ての試験が終わってのんびりとした日々を過ごしていた時の事です。
母さんからいきなりこんなLINEが来ます。
ちょうどグループワークの授業があり、その10分間の休憩時間に電話をかけて聞きました。
なんだろうなあ、最近仕送り使いすぎたから怒られるんかなあ、とか思いながら電話に出たら、酷く落ち込んだというよりは、「申し訳なさそうな」声で母さんは僕に伝えました。
「母さん、虫垂に癌が出来て、それが肝臓とリンパとかに転移してるんだよね」
「それで今入院してる」
聞いた瞬間悟りました。StageⅣb以上。
所謂「末期」だって。
実は8月終わりにがんの疑いがあってちょうど自分が帰った9月頭ぐらいにはもうがんがあるって分かってた、とのことでした。
つまり僕がいる前でその事実を隠していたということです。
「何のために」って考えてすぐわかりました。
OSCEとCBT(OSCEの知識verのようなものです)の為だって。
僕が気にしたら試験に支障が出る、って思ったから僕が実家にいる時は必死に普段通りに振る舞っていました。
その事に気づいて、母さんに直接「試験があるから絶対に言わなかった」って言われて、涙が止まらなくなって。
頭の中ぐちゃぐちゃになって、休憩時間10分しかないのに、一人で取り乱して涙があふれて、どうしたらいいかわからなくて。
こうなるの分かってたから「申し訳なさそう」だったんだろうなって、今なら分かります。
でも、時間は無常に流れて行く。
グループワークに戻る時間になり、一旦通話は終わりました(LINE参照)。
そして、グループワークが終わった後すぐに母さんに電話しました。
その時も涙があふれてあふれて止まらなくて。
母さん泣いてないのに、俺ばかり泣いて。
俺も苦しかった。
苦しいから涙溢れてるのに、一番苦しい人が泣いてなかったんだ。
その意味が分かるか、ってずっと自問自答してました。
そのとき母さんが僕に伝えた言葉が印象的で、
「自分も悲しいけど、修くんや結ちゃん(妹)が母さんのことで悲しくなる方が悲しい」
自分が末期がんでも、こんなこと言えるだろうか。
自分よりも子供の事を考えてくれる親が世の中に何人いるんだろうか。
母さんの優しさを受け取って、自分は泣いちゃいけないのに、より一層泣いてしまいました。
泣かないで、って言われても。
そんなことを聞いて、医学部何て全てどうでもよくなりました。
本当は次の週の月曜に試験があるけどそんなのどうでもいいから、すぐ帰るって伝えました。(実際会いに行って戻ることは可能でした)
「どうでもいいから、すぐ帰るよ」って母さんに伝えました。
そしたら、母さんは怒りました。絶対ダメ、って。
もう僕の行動に僕の意志は関係ありません。全部母さんの望むようにしようって思ったから、素直に月曜まで千葉にいることにしました。
そして、その後に母さんは続けて言いました。
「母さん、あきらめるつもりないから。白衣式行くから」
「白衣式」とは、簡単に言うと医学生が病院実習に参加してもいい事を証明するために、偉い方々から白衣を着せてもらう一種の式典です。
12月1日に執り行われるその式に絶対参加したい、と母さんは僕に伝えました。
勿論、そこからずっと先も諦めずに生き続けると。
この言葉を聞いて、僕も「あきらめない」決心をつけることにしました。
この電話、もう一か所気になる部分があって。
本当は、母さんは僕の月曜の試験が終わってから伝えようと思っていたらしいのですが、その一週間前の火曜に結果として僕にがんの事を伝えました。
今となっては本当の事は分かりませんが、母さんはきっと何かを感づいていたか、それとも心が弱っていたかのどちらかと思います。
相当頑固で自分で決めたことを絶対に曲げない人が、信条を曲げてでも自分に伝えてきたことの意味を、今でも考えてしまいます。
この電話を受けた後、まず祖母に電話しました。
「なんで電話したか分かる?」と尋ねたところ、どうやら母さんが病室から電話した時に隣にいたので、わかったとのことでした。
この時に祖母に言われた言葉が凄く印象的で、
「いっぱい今は泣きんさい。
でも、修弥が一番しっかりするんよ」
って言われて、我に返りました。
僕の家で、一番未来の希望を持っているのは客観的に見て僕です。
僕の周りに医療関係者なんているはずもなく、そんな僕が一番しっかりして、浪人期に母さんに支えられたように、自分が今度は支える番だって、深く痛感しました。
なので、まずは妹に母さんの事を告知しました。
誰かが言わなくちゃいけないから、その仕事は自分がする責務があると思いました。
妹を泣かせたのは何年ぶりだったか、もう思い出せません。
そんな妹に「治るの?」といわれたとき、思わず息がつまってしまいました。
何故なら、誰よりも治らないことを自分が理解していたから。
だから、論点をずらしました。
母さんがあきらめないことを選んだのだから、それを信じるべきだろ、って強く主張して、そのことを考えさせないようにしました。
残酷な兄だと今でも思います。
この日は正しく、浪人や試験に落ちた事の何もかもを含めての、
「人生で一番最悪な日」でした。
2023年11月21-22日
14日からの一週間が一番辛かったです。
どうしたらいいかわからなくて、でも試験のために勉強しなくちゃいけなくて。
心が毎日ぐちゃぐちゃな一週間だった記憶があります。
そんな僕が月曜、つまり20日の試験を無事終えすぐさま広島へと帰りました。
その新幹線での移動中、母さんに手紙を書こうと思って手紙を書いていました。内容は、今までの22年間の人生と、母さんに伝えたいことを詰めました。
「過去の話をしないで、未来の話をしよう」って、母さんに電話で伝えたにもかかわらず過去の話をしたのは、絶対に後悔したくなかったからです。
自分の母方の曾祖母の時に自分は一生消えない後悔をしたので。
その後、伝えたいことを書きました。
こんなことを書いた記憶があります。
手紙の最後には、在り来たりだけど心からの言葉を書きました。
病院の面会時間が20時までだったので、次の日の朝に母さんを尋ねました。
するとそこにいたのは、黄疸で皮膚の黄色くなっていた母親でした。
僕は泣かないって決めていたのと、黄疸を知っていたということもありなんとか堪えたのですが、それを見た瞬間妹が大号泣して。
母さんに泣きついてるのを見て、本当に自分も泣いてしまいそうでした。
でも、「あきらめない」って決めたから、絶対に泣くわけにはいかないって、自分に誓っていました。
火曜は妹と父さん、祖母もいたこともあり、「しっかりしなきゃ、弱い所見せられないぞ」って、ずっと強がっていました。
誰よりも泣きたかったのに。
本当は火曜で千葉に帰ろうと思っていたのですが、もう一日広島にいる事にしました。
でも、実家には帰りたくなかった。
そんな願い虚しく、手紙だけ母さんに渡して実家に連れて帰らされました。
そして、否が応でも向き合うことになりました。
母さんが家にいないことに。
玄関を開けると、車椅子がそこにはありました。
久しぶりに妹と僕が帰ってきて嬉しいのか、父さんは珍しく焼肉を家でしたのですが、僕の隣の席はずっと空いたままで。
いつも仕事で遅くなるから22時には帰ってくるかなって、勝手に淡い希望を抱いていたけど、22時過ぎても母さんは帰ってこない。
ずっと母さんが寝ていたテレビの横のソファーには誰もいなくて。
母さんの料理ってもう食べれないのかなって思えてきて。
9月に帰ったとき、母さんがいつものように僕が一番好きな豚汁を作ってくれたんですよね。
でかいレンコンとしめじ、豚肉ににんじん、薄く切ったゴボウも入ってて、いつもそれが大好きでずっとおかわりして食べてました。
広島に帰ったら絶対作ってくれる豚汁。
作ってって言ったら、本当にそれしか作らなくて。夜飯も次の日の朝ごはんも豚汁で。
結構無理して作ってくれたことを後から聞いて、なんだか、もう少し味わって食べればよかったなって、今では思います。
他にもいっぱい母さんの料理の事、今でも覚えてて。
確かに豪華なものが出てくるの少なかったけど、小さい時たまにチーズケーキとか、お金が無いときは食パンの耳を揚げたものだったけど。
俺の誕生日では、絶対手作りがいいって、どんな時も一からショートケーキやチョコレートケーキを作ってくれて。
妹の時も絶対手作りで。
小学校の塾の時は帰りが遅いから毎日塩むずび握ってくれて。朝は絶対和風がいいから、ソーセージと卵焼きとご飯とみそ汁で。
書いている今思います。
全部全部、かけがえない宝物だったんだなって。
その日、自分の寝室でずっと泣きながら寝たのを覚えています。
そして水曜日、22日。
妹にお願いして来院する時間をずらしてもらいました。
そして朝病室に着いた後、祖父母にも席を外してもらって、一時間近く二人だけで話をしました。
ずっと泣きながらこれまでの全てをぶつけました。
一番辛い母さんが泣いてないのに、泣いてばかりでごめん。
大丈夫だよって言っても、信じられないかもしれないけど、母さんには安心して欲しいんだ。
浪人期、俺が当事者で母さんが支える番だったから、今度は俺が母さんを支えるよ。
だから、白衣式絶対来てね。
そう伝えました。
母さんも俺も、最後まであきらめないことを、誓いました。
お互い、笑顔で。
この時、気づいたことがあります。
僕が母さんに手紙を渡したように、何か「カタチあるもの」が欲しいって思いました。
考えたくないけど、いつの日かそうなるから、お守りであったり手紙であったり、何か欲しいなって。
でも、何よりも「カタチあるもの」を僕は母さんから受け取っていました。
それは、僕という存在そのものです。
僕が生きている事こそ、何よりも母さんがこれまで生きてきた事の意義なのだと、この時点で気づきました。
だから、自分は自分を輝かせることで、母さんにとっての希望になろう、って本心から思いました。
そうしたら、母さんにありがとうを返せるかなって。
2023年11月27-29日
従来の予定では11月30日に広島の病院を退院して、こちらに来た後でそのまま12月1日の「白衣式」に出席するというスケジュールでした。
そのため、新幹線の多目的ルームのようなものであったり、タクシーを予約していたのですが、絶対に参加する表明なのか、はたまた僕に会いたかったのか分かりませんが、千葉の病院に27日の月曜から転院しました。
私の母の飽くなき執念に思わず笑ってしまいますが、それぐらい「白衣式」というのは母さんにとっての大きな希望だったのだと思います。
27日の月曜に行ったときは、モルヒネを静注してて楽になったように見えたので、29日にまた来る約束をして帰ったのですがその後が地獄だったらしくて。
体質的にモルヒネが合わずに、ずっと痛みにうなされながら一晩を過ごしたことを聞きました。
28日は、自分はお見舞いに行ってないのですが(自分を輝かせるために部活に参加することを選んだし、それを母さんが望んでいることを理解していたから)、27日と同じく、ずっと寝れなかったことを祖母から聞きました。
そして、29日の水曜日、二回目のお見舞いに向かいました。
昼の14:30から夕方の18:30まで滞在していたのですが、その間基本的に母さんはずっと寝ていました。
痛み止めが効いてやっと寝れたのかなって、安心したのを覚えています。
それで、18:30になってそろそろお腹空いたし、母さんも起きないし帰ろうかなって思ったので、病室を出る事にしました。
白衣式までもう母さんには会わない。
そう決めていたので、次に会うのは金曜の白衣式の会場だと思っていました。
その時の事です。
って一言手を握りながらいうと、何故か母さんはそのタイミングで目を覚まして「帰るの?」って聞いてきました。
「ああ、だから白衣式絶対来て」
って、僕が言った事に頷いたのを確認してから部屋を後にしました。
これが、僕と母さんの最後の会話です。
2023年11月30日12:30
ずっと朝から頭が痛くて寝ていました。
すると、10:20に病院の看護師から電話がかかってきました。
内容はチアノーゼが出ている事と、血圧がかなり低い、とのことでした。
それを聞いたとき、純粋に症状が悪化しているのだとは思いましたが、自分と母さんで、次に会うのは白衣式だと決めていたから、ただ単純に「分かりました」と答えていました。
そのタイミングで父に連絡したほうがいいかも、といわれたので、父さんに「今日できれば千葉に来てくれない?」と連絡しました。
後で祖母から聞いた話ですが、10:30までは意識があり会話も成り立っていたとのことでした。
そして、11:40の事です。
看護師から、出血及びバイタルの低下、所謂「ショック状態」なのだと連絡を貰いました。
それを聞いて即座に飛び起き、絶対に見せたくなかった白衣を持って家から自転車で出発しました。
最寄り駅にタクシーが止まってなければ30分死ぬ気で自転車を漕いで病院に向かおうと思っていたのですが、何の運命か、普段絶対タクシー止まってない最寄り駅に一台だけタクシーが止まっていました。
すぐに自転車を駅に置き、タクシーに飛び乗って急いで病院に向かってもらいました。
病院に到着したのは12:26。
すぐさま8Fの緩和ケア病棟に向かいました。
部屋に到着したのは、12:30。
「母さん、来たよ」
そう言った僕の声をきっと聴いたんでしょう。
気が付くと心臓と呼吸が止まっていました。
看護師さんが3分後ぐらいに来て、呼吸の確認をした後に申し訳なさそうに告げました。
「……呼吸してないです」
信じられないけど自分を納得するために、持ってきてた自分の聴診器で母さんの心音と呼吸音を聞こうとしました。
でも聞こえてくるのは五月蠅いくらいの自分の鼓動だけ。
この瞬間、僕は母の死を悟りました。
呼吸が段々と荒くなって、動機が止まらなくなった。
祖母が僕に向かって言います。
「母さん、まだ浅く呼吸してるよ」
僕は、祖母に伝えました。
「いいや。母さん、もう亡くなってるよ」
それを聞いて祖母は驚愕の表情を浮かべた後、母さんの近くでぼーっと立っていました。
僕は黙って、一番やりたくなかった事をしました。
開けてなかった新品の白衣を開け、母さんの目の前で見せなきゃって、本能から思いました。
それを見て、祖母はすべてを悟ったのか、泣きながら
って、母さんに伝えていました。
それを聞いて、我慢していた涙が溢れました。
あと一日だった。
あと一日で念願の白衣式に母さんが行けた。
広島から祖父や妹、叔父や父さんが来て、最高の晴れ舞台になると思った。
俺が医者になる姿はまだ見れないけど、白衣を着て「やっとここまで来れたよ」って母さんに直接伝えれたはずだった。
そこでちゃんと、「今まで育ててくれてありがとう」って、また伝えるつもりだった。
でも、そうはならなかった。
母さんが楽しみに用意してた服も、靴も行き場所を無くしたんだ。
そう思うと涙が止まらなかった。
果てしない状況への怒り、悔しさ、そして何よりも寂しさが心を埋めて行った。
優しい人から死んでいく。高校同期二人も、曾祖母も、お世話になったラブライブ!の事が大好きな先輩も。
それが許せなくて、悔しくて。
何よりも悲しかった。
でも、これで終わらなかった。
だから、いま文章を書いている。
「ありがとう」
どんなに悲しみが心を覆っても、ひとつだけ言える。
それは、後悔がない、ということ。
ここから、少しだけ「ラブライブ!サンシャイン!!」の話をします。
この、あとちょっとで叶えられたはずの夢が叶えられなかったこと。
私は誰よりも知っている。
誰よりも向き合ってきた。
彼女たちの境遇と母さんの境遇。なにも違わない。
やれることは全部やった。
白衣式に絶対母さんを連れて行くため、看護師や主治医に何度もひるまずに言い合ってきた。
それが病院にとってリスクを負う行為なのは重々承知している。
でも、そんなのどうでもいい。
母さんの願いをかなえることが、俺の全てなのだから。
やれること全部やって、結局母さんは一日前に亡くなった。
文字にしたらこんなにも悲しいのに、俺も母さんも、きっと後悔はない。
母さんへ
病気になったときもお互い笑いながら広島で言い合ったな。
「こうなったの、きっと運命だよね」って。
母さんが「もう少しキンプリとか(俺と妹の子育てが終わって)いろいろ遊べるかなって思ってたんだけど、思ったより短かったなあ」って言っていた時は確かに自分も心がキュッとしたけど。
お互い学んだんだ。浪人期で。
過ぎたことを悔やんでもしょうがないって。
だったら、未来に向けて歩もうって。
千葉で亡くなったのも、運命。
というか、ただの母さんの我儘だと思う。
どうせ、修くんの近くがいいって母さん思ったんでしょ。
あーあ、父さんと結凪じゃなくて、俺でいいんかね……w
そりゃ正直、白衣式終わったらもう会えないだろうなって、思ってたけどさ。病院実習始まるし。
でも、病院実習中の俺に迷惑かけたくなかったんだよね。
俺はそんなのどうでもいいのに、相変わらず頑固だなあw
白衣式一日前に亡くなったのだって、それはきっとちょっぴり後悔かもしれないけど、俺に伝えたかったんだよね。
「ここからは、ひとりでがんばりんさいよ!」って。
分かってるよ、安心して。
相変わらず成績ダメダメかもしれないけど、母さんの息子として、絶対に医者になるから。
こうやって近くに最後まで居てくれた事、本当に嬉しかったよ、ありがとう。
そうだね、改めていっぱい「ありがとう」伝えとくね。
どうせ、この文章も勝手に読むんだろうだからさ。
舌が短くて何もできなかった自分のこと、あきらめずにずっと向き合ってくれてありがとう。
小学校二年生の時、「医者になりたい」って言った馬鹿気た夢をここまで信じてくれて、一緒に見てくれてありがとう。
これからも一緒に見ような。
学院に入るために、一生コピーでプリント刷ってるのトラウマになってたけど、勉強させてくれてありがとう。
中高六年間、ずっとずっと毎日お弁当作ってくれてありがとう。
なんだかんだ世界で一番好きな料理だよ。
学院に居たときずっと我儘言ってきたけど、笑いながらいろいろ許してくれてありがとう。
ずっとE判定でも、受験に落ちても、立ち直るのが難しい深い悲しみの中でも、どんな時でも何もなかった自分を信じてくれてありがとう。
今は立場を得てるから勝手に尊敬される立場になってるけど、そうじゃない時に信じてくれた事。
「親の無条件の愛」ってこれなんだなって学んだよ。
いつもいつも家族の為に頑張ってくれてありがとう。毎日早起きだし、睡眠時間もあんまし取れてなかったこと、結構罪悪感だけど、笑いながら「修くんの為なら頑張る」っていつも言ってくれた事、本当に感謝してる。
大学に行って広島を出てもずっと応援してくれてありがとう。そりゃ偶に連絡ばかりでしつこいなあって思ったこともあるけど、そんな母さんが居てくれたからここまで来れたよ。
なんだが、ありがとうって溢れて止まらないけど、全部同じこと手紙にも書いたし直接伝えたけど。
紛れもない俺の本心です。
明日、というか今日だけど、白衣式行ってくるよ。
客席で大号泣している誰かさんを見れない事、心残りだけど。
まあどうせ勝手に俺の見えないところで俺の事見て大号泣してるんでしょ。
俺が「やめて」って言っても。
もう止めないよ、母さんはこれから自由にして欲しい。
一生俺のストーカーでもしときなよ。
絶対、後悔させないから。
白衣式に、行ってくる。
母さんの生きた事の意味と価値を、心に刻むために。
最後にはなるけど、これだけ。
人生でもう母さん以外に言うことないけどさ。
人生でたった一人への「ありがとう」だけどさ。
というか数えるぐらいしか言ったことないけど。たった一言だけ。
母さん。俺の事、産んでくれてありがとう。
愛してる。
2023年12月01日 1:51
相変わらず泣き虫だけど、仁美の自慢の息子 修弥より
23年分の心からの感謝と愛を込めて
追伸
2023年12月01日 20:58
母さん
白衣式、見てくれてありがとう
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