読書の不思議

私は読書家とはいえない。けれども十年前にマネジメントの博士課程に進んで以来、「読む」という行為が日常になった。

活字中毒という言葉があるけれど、似ているようで違う。

マネジメントというといかにも実利的に聞こえるかもしれないが、私はあまり世の中のアレコレにすぐには役に立ちそうもない方面に引き込まれた。その対象が何であれ勉強に没頭するということは、その対象なるものを根源的・原理的に理解したいと欲してしまうということなのではないだろうか。

一応博士論文はマネジメント(組織論)の範疇に収まるように書いたが、学校を出てからも思索が途端に止まってしまうはずもなく、読むものはどんどんとそこを離れ、数学、物理、生命科学、歴史、伝説・神話、比較的古い時代の小説(19世紀後半〜20世紀前半)などなど、人間というものを理解したいという欲求・興味に従って乱読している。

「不思議」というのは本たちとの出会い方。

最近は世界各地の古代の神話や物語に興味があって、インドの『バガヴァッド・ギータ―』を読み始めているのだが、比較的長らく使っているTwitterで流れてくる出版社関係のTweetを眺めていてふと気になるものがあればチェックするようにしている。このように書くと気になるものも古代の伝説・神話系の本なのか?と思われるかもしれないがそうでもない。

今朝気になったのは亡くなられたという木村敏先生の書物。Tweet内では4つの著書が写真で紹介されていたが、その中で心惹かれた『からだ・こころ・生命』という本を見てみようと”木村敏”でAmazon Kindleを検索した。目的の書物もヒットしたが、『あいだ』という書物により惹かれ、早速サンプルをダウンロードして読み始めた。

冒頭(はじめに)の1、2ページでちょっとビビった。

というのも『バガヴァッド・ギータ―』のつい小一時間前に読んでいた箇所と「こんなことがあるのか!?」というぐらいばっちりとシンクロしたからだ。

ある人が、あるいはある生物が死んだからといって、生命そのものが消滅したことにはならない 『あいだ』木村敏・著より
あらゆる者の身体にあるこの主体(個我)は、常に殺されることがない。 『バガヴァッド・ギータ―』より

今回のように正に同一のこと(”生命”と”主体(個我)”という違いはあるが)を言っているというようなシンクロの仕方は珍しいが、同じような経験はわりと頻繁にある。

Twitterという道具がなければ起こり得ないだろうし、Kindle版書籍がわんさかあってさくっとサンプル読みができる、なんて便利な世の中でなければ『バガヴァッド・ギータ―』と『あいだ』が私の中で繋がることもなかっただろうと思うと、便利な世の中になったものだと思うと同時に、書物というものの不思議な力を感じずにはおれないのであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?