真実は一つ

一人に一つずつ。かな?

いや。その瞬間瞬間に一つずつなので、結構な数ある。

収集付かないなーって感じる人は現代病。

でも安心してください。別に21世紀を生きる私たち特有の病ではないので。

人の心なんてそんなに一気にどっかの時点で強くなったり弱くなったりはしない。

明確に見えるもの、感じられるものが欲しい。

そういう点は「遺伝子に支配されている」って考えてもいいんじゃないか?と私は考えています。

真実は一つ。

人それぞれ、生きておればその瞬間瞬間で受け取っているであろう感覚が全て真実。

比べたり分類したり値付けしたりすることで、みんなで分け合えそうな真実もあるかもしれない。

そこは全く否定してはいけない。

でも、「みんなで分け合えそう」という感覚は一人一人のものだということも忘れてはなりません。

現代病も先祖代々受け継がれてきた資質あってのもの。勿論文化や歴史もね。

ならば克服するにも地道な作業が求められるということ。

自分自身だけが感じている感覚に向き合いましょう。

言うのは簡単。

でも本当に大事なんですよね。

「言うのは簡単」と宣言して脇へ追いやってはいけない。

カタチにして上手く表現できなくてもいい。

向き合うのです。

色が得意な人もいるかもしれないし、音かもしれない。

今の感じは”ピンクのモーツァルト?”みたいな感じ。

それでもまだはっきりし過ぎている。

もっともっとぐちゃぐちゃな感じ。

マヨネーズとケチャップを混ぜていて、まだ混ざり切っていない感じ。

グヮングヮンと耳鳴りがしているような感じだけ。。。

とかね。

整理しきれないものはゴマンとある。

それを見ること。感じること。

世に溢れかえっている表現物や、大して意味もなさげな言葉の数々だって、そういったわけのわからないもの、一人一人がその瞬間瞬間に感じていたものから出てきている。

そういう目で見るなら、比喩的推論の得意な私たち。

いろんなアイデアが湧いてくるものです。

「あれ?この表現。結構しょっちゅう出くわすあのわけわからんいやぁーな感触を表すのに使えそう。。。」

とかね。

真似るのはカタチ。

真似ることによって読めるようになることがある。

それはそれぞれの人のその瞬間瞬間の真実。

カタチを真似ることが、ただ揃えたり、ランク付けするためだけにならないように、真似る時には「ありがとうございます」と心の中でつぶやきましょう。

だってそれは自分自身の安心のためなんだから。

自分らしさというものは、自分なりの安心を得るための方策。

真似しやすく感じるものには必ずや傾向がある。長らくやっていて飽きがきたりするのも含め。

一瞬にして出来上がるものではない。

時間をかけて、じっくり自分の中の表現しきれないものと向き合う中で形成されるからこその自分らしさ。

丁寧に礼節をもって真似る以上、自分だけの自分らしさ押し売りも避けられる。

お互い様。

ね。

一人一人がその瞬間瞬間で真実を携えていたとして、何ら混乱なんて起きないでしょ?少なくともどうしようもないカオスになんてことにはならない。

大丈夫。

みんなそこそこイイ勘してるんだから。

でなきゃ今私たちはこうして生きてなんていないでしょう。

多分ね。。。

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