アクセラレーション

現代は忙しい。

何をするにせよ素早く済ませた方がいいという何となくではあるけれども強迫観念めいたものがある。

効率化。生産性向上。

素早く済ませて次に他のことをする。そしてその他のことも素早く素早く。そして次なるものも。。。という連続。もっとバリバリに複数同時並行って場合も。。。

こんなこと本当に実践している人はそんなにはいないのかもしれないけれど、想像するだけでも忙(せわ)しないどころか息が詰まりそうで吐き気さえ催しそうだ。

そうは言っても速くできるなら速い方がいいってこともある。

何を?というところ。

ここんところをちょっと考え直してみる価値はありそうだとふと考えたのだ。

読んでいたのは”恥”についての哲学的人類学的考察。

”恥”の感覚というのは他のいろんな感覚とは違って生まれた時から備わっている。けれども生まれ落ちたところにはそれなりの文化、風俗、習慣などなどが既にあるわけだからして、ほとんど即座にそうしたものどもに照らして”適/不適”という判断を求められる種類の感覚と入り混じる。そんな話。

最初の生まれつき持っている感覚の部分の説明で好印象だったのが、そうした類の感覚というものは、コミュニケーション的とか表現的だという定義。つまりはパッと目に見て分かるカタチで現れるので他者とのやり取りが生まれる可能性が高く、よって次々と色んな意味をもたらすことになる。そういうものであるとの説明。

パッと赤面してしまって、相対する人が「こいつ恥ずかしがっとる」と感じ、もしもその人が意地悪な人なら「オマエ間違っとるでー」というのを敢えてハッキリとは言わずに冷やかな視線を投げかけるかもしれない。その視線がさらに「やってもた。。。」という”恥”の感覚に拍車をかける。。。そんな感じ。

読んでいたものによれば、そうした「間違ったこと」というのもマナーであったりもっとお堅いプロトコールに照らしてであったりするので、そうやって「何が適/不適であるかの判断」というものがとあるコミュニティでは異なる個人間でも似たようなものになる、ということらしい。

納得できない説明ではない。けれどもなんとなく速いなと感じたのだ。

「適/不適」に関する判断というのは道徳、倫理にも通じるものなのでより理性的な判断の範疇に属しそう。けれども”恥”の感覚というものは生来のものなので、理性よりも先に来る何か本能的なものも源泉にありそう。読んでいたものも道徳的な判断を専ら理性で説明するのは不十分だという立場ではあったのだけれど、最初のコミュニケーション的な感覚というのが薄れてしまう印象があった。

何でもかんでも素早くやってしまいたいというのはこれまたちょっとした本能なのかもしれない。であるならば、このコミュニケーション的感覚というものが巻き起こす(と思われる)複数人間のやり取りの部分。ここのところを超高速で様々なケースについてできるだけ多くの可能性を探ってみる。そういうことはできないもんだろうか?

生きていく上で最高の戦略なるものはないと思うけど、一番マシなのは何?と問われれば私は「Wait &See」と答える。忙しい時代にはそぐわないように思えるかもしれないけれど、やっぱり急いては事を仕損じると思う。

いそいそと急ぐのにはその過程も含めやはりより安心を得たいという動機や期待があるはず。「Wait &See」と言ったって「Wait」の間は何もしないってわけじゃない。そんなに急ぎたいならWaitの際中にこれでもかっ!!!というぐらい急いでありとあらゆる可能性について考えて準備すればいい。下手な考え休むに似たりとも言われるけれど、下手に行動するよりはよっぽどマシだ。下手であろうが何であろうが高速で色々考えれば当たりだってあるかもしれない。世間が「これが正解」と言っているからといって大して考えもしないで私たち全員が同じ行動をとるなんて想像しただけでキケンと感じる。

本能的な恥の感覚が先なのか?世間が否応なく押し付けてくる規範めいたものが私たちの道徳観を形作るのか?そこにあるはずの個々人のジャッジメントというのは注意深く訓練さえすれば狂いなく実践されるようになるものなのか?

こうした問いも、私としては一瞬の間に複数人の間で起こり得るやりとり(勝手な想像や思い込みも含む)というコミュニケーション的で実際的なイベントに即して「これでもか!」というぐらい細かいステップに刻んで見ていくことで答えられなければならないんじゃないかと思う。

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