必要な調整

の続きみたいな感じで

感覚についてより科学的に理解すること。

個人をあまりかっちり固定したくはないけれど、私たちは個々にそれぞれやっていくしかない。誰かさんの言いなりになるとしても、気付いた時点で初めて「それでいいや」と妥協するような場合も含め、そう決めるのはアナタ。

個々人が取り組むことのうち感覚というのは初歩の初歩であり全てであると言ってもいいと思う。

感覚というのは、実は、各々、自分自身と相談しながら形作っていっている。生まれてこの方、死ぬまで。ずっと。

学び、上達もしていくので、それなりに体系的なところもあるけれど、先立つ何かが全くなかったとしてもなんとかなるというか、なんとかする。それぐらいのアバウトさはある。

というわけなので、「感覚について科学的に理解する」とは、感じているモノ・コトについての厳密さ、正確さではない。

自分自身の関与の仕方については、できるだけ正確に感じられることが望ましい。

つまり、特段の材料がない中でもともかく何かを練り上げられる自分自身のすごさ、アバウトさをよりよく知る、と言い換えることができる。

加えて、そんなアバウトさに対する責任はとらなければならない。当然のこととして。

あまり言語偏重にならないこと。

感覚について科学的に理解しようとするとついつい長々と言葉を継いで記述しようとすることになるんだけれど、ある程度のところで一旦切るクセをつけるべき。

言葉は大事だけれど、言葉は空虚でも繋いでリアルっぽくすることはいくらでもできるからね。

そういう言葉の性質以前の問題として、私たちの感覚なんてものは所詮アバウトなものなわけだからね。。。それを厳密に記述するって、、、少なくとも”究極の目標”にはなり得ないのだから。

言語化するにせよ、言語以外の媒体に頼るにせよ、あまりのめり込み過ぎないことよね。自分自身の存在を感知するには、「のめり込みつつある」或いは「ついついのめり込んじゃった」姿を視界の端っこにでも引っ掻けるイメージが大事。あくまでも放ったらかしにはし続けないこと。

絶えず流れていく感覚にこそ私たちは自分自身を発見できる可能性が高い。

言葉は基本的に他者との対話用に使う。

自らの主張(意見、正体、観察結果、etc.)のためではなく。

その方がおそらく自分自身の姿の残像ぐらいは見えやすいはず。

相手の言っていることや相手のことを知るだけではなく、自分自身の姿もどこかに見えないか?という注意を、なるべく忘れないように。

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