評判と知的創造活動

今、ネット界隈で評判が気になる人ってどういう人たちだろうか?

ま、たいがい金稼ぎたいんだろうね。

で、一体何をやって評判を上げてお金を稼ぐのか?

画像、動画、音楽、文章などなどメディアは様々だけど、いわゆる創作活動。

創作活動をやった結果、それが評判という数値になり、そして、金銭化される。

評判獲得のために創作活動をする。

ここに大きな矛盾が潜んでいるということは多分多くの人々が気づいている。

そもそも創作活動というもの、実は評判とかそれが変換されるカネの獲得が動機ではない。

評判獲得でもない、カネでもない何か。人それぞれ異なるけれど、普段から色々と感じること、考えることあってはじめて創作意欲なるものが湧く。実際、読まれるかどうか?なんて分からないし、ただ書きたくなるから書く。

けれども、結果として読まれる方の人々は、「まあ。なんだかんだキレイごと言ったって、結局読まれないもんいくら書いたって無駄よね。」なんて言ったりする。

私は、読まれることは必要と思う。けど、読まれるだけではダメだと思う。なるべく私の言いたいことをきっかけに色々と考えてほしい。考えることによって実はまだまだ別の行き方(生き方)があるかもな、という意味での自由さを見つけてもらえたらと思う。つまり、書いてあることを媒介にして”読む人自身の”気持ちとか考えとかに注意ぐらいは向けて欲しいと思う。ネット界隈の評判というもの、アクセスしてくれたことは数字で示されるけれど、読み手が自身の気持ちとか考えに注意を向けてくれたかどうか?なんて判らない。

スキとかコメントの数とかで、創作者の意図とか、それが読んだ人にどういう風に伝わったのかとかって判定できるのだろうか?

「できる」という人は、別に創作物なんてどうだっていいんだろう。カネにさえなれば。しかし、自らが創作したモノに対して、そのような態度をとるということは、「結果(稼ぎ)が全てでしょ?とりあえず」以上の影響が、人心に及ぶことを知るべきだ。自分の作ったものに愛情を込めないということは、自分自身、そして、周りの物事全てに対しても愛情を込めないということ。

「いや。ただのブログ記事一つですから。。。」

なんつって。。。

その態度そのものが既に何をおいても自分自身を冒涜している。自分自身を冒涜する、ということは、結局自分以外のもの全ても冒涜しているということ。

これ。わかんないんだろうね。。。

繰り返しになるけど、創作意欲ってカネではない。カネに換算される前の何か。

スキでもコメントでもアクセス数でも、カネでも、目に見える形を目指すことは、そもそもの創作意欲が何だったのかを忘れさせる。というか、多くの場合、創作活動のもととなっているものは、作品を通して、形にはならない何かを引き起こそうとしているのだから、目に見える指標なんかでは測れない。

「労働と報酬」モデルが刷り込まれていることも大きく影響している。

例えば趣味の一環であった知的創作活動。たまたま書いたりしたものがカネになるなら御の字で、別に創作活動のそもそもの意義だとか、どうだっていいという向きが大勢を占めるのだろう。けど、考えてみてほしい。カネになるということが主たる目的にならない、なんて言えるだろうか?

創作活動を労働のようなものと捉え、投入した労働力に比して妥当な金銭収入を得る、或は、目標金銭収入額を定め、労働力(調査とか)必要な資源を投入する。

カネは生きていくうえで、将来計画を練る上でほぼ必要不可欠。

必要不可欠である以上、それをいかなる手段をもってしても獲得しようとすることは、余程の無法をはたらかない限り、非難されはしないだろう。

発想を変えてみる価値がある、と思えるのは、じゃあもし必要不可欠な分のカネは既に保証されている、という状況なら、私たちって一体何を求めて知的創作活動に向かうだろうか?ということ。

評判やカネとはつまり、個人レベルでのとりあえずのモチベーション維持に貢献するもの?

知的創作活動やそれによって生み出されるもの、というのは、夢??

知的創作活動によって生み出されるもの、とか、活動そのものって、かなり偶然性の高さを織り込んだうえでのコミュニケーションといえるのではないか?

目に見えないものに訴えかけるからといって、必ずしも現実生活に無関係で無意味な空想と断定はできない。何故なら、創作者も、その作品或は創作活動だって、現に目に見えるものだから。つまり、創作者の全く意図していなかった解釈がなされ、その解釈した人の生活が現実に過ごしやすくなった、なんてことも可能性は低くとも起こり得るということ。

形になって目に見える成果のみを求める、という形態のコミュニケーションはあり得る。ただ、それだけが意味のあるコミュニケーションである、という世界は住みづらいと思う。持てる者はさらに富み、持たざる者はさらに貧する。そうした避けられない階層化を自己責任と片付けてしまえるのか?私にはそうは思えない。不満は増大し、時にラディカルな抗争を誘発するだろう。それを所詮可能性の低いことと放置するのはあまり知恵のある戦略とは思えない。

ベーシックインカム・ユートピアを思い描いているとおり、私の夢はユートピアンなので、現在の現実からはほど遠い。

ただ、私の思い描くユートピア。お花畑のイメージというわけでもなく、、、かなりラディカルに冷酷な面も含まれている。それは、「誰も彼もが知的創作活動家になんてなれるわけがないのだから、そもそも向いてない人々は評判とか気にして無理なんかしないのが一番」という考え方。

つまり、現時点では、労働も知的創作活動もいっしょくたで、悪い評判が嫌だから働くいい評判が得られたら自分は行き抜けられやすいだろうから知的に考えている振りをする。結果、有限な資源をより効率的に活用して人々が生きていくのに必要なモノを必要最小限で生産し続ける、という理想が妨げられ、先々どうなるのかもわからない未来について、ろくに夢も与えられない情報ばかりが席巻する。(無駄な労働をして効率性を妨げておきつつ、さらに酒場で愚痴ってモチベーションも下げるような。。。っていうのは極端だけど。。。)

「バカは考えなくていい」とでも言っているかのようだけれど、実際知能の働きとか感性とかって人によって様々なわけだし、「みんないっしょに」って嘘つく方が不誠実。

一瞬非情に見えて、実は夢も希望もある。

知的能力が優れていようが劣っていようが、日々の生存に関して逼迫していない方が、きっといいアイデアが出てきやすいのではないか?(「必要は発明の母」ともいうけれど、いろんな発明が特定の偉そうなグループだけからだけでなく、ほんとに日々の生活に密着したところから出てくるって夢のようでない???そういう状況を創り出すためにも、最低限生きていくために必要な現金収入ぐらい保証されてなきゃ不平等ではないか?と。)

ベーシック・インカムなんて導入して、現在の生活レベルを最低限でも維持できるような生産・流通システムって維持できるのか?そもそもベーシック・インカムをどうやって生み出すんだ???という疑問があると思うけれど、既にかなり発達した生産・流通システム、それを動かすハード・ソフトの各種技術がある現状を鑑みると、「ベーシック・インカムのために!」ってことで今あるものを維持・発展させて、真面目に意欲的にやる人。十分沢山いると思うのよね。。。(つまり嫌なくせに無理して評判とかのために首突っ込んできて邪魔しないで。とも言える)

まあ短いようで長い人類の歴史で、いまだに実現していない夢のような世界だから、ユートピア。。。まだまだ色々と実現に向けて試行錯誤、、、できるようまずは思索せねばなりませんな。。。

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