ものがたりの要素について

物語は言葉の連なりとはいえ、ただ繋げるだけでは物語らしくならない。物語らしさを出す法則・規則を説明するのに使われるコンセプトには、筋、プロット、スクリプト、ジャンルなどが挙げられる。

私がことばの力を見ていくために「これでいこう!」と決めたのはプロット。プロットの定義というのもしかし様々で、必ずしもユニバーサルに「これ!」というものが決まっているわけではない。ただ、大体、言葉の連なりを物語らしくするために必要な構成要素が何となく合意されている。私が気に入っているプロットの構成要素は、人物行為・行動場面目的、そして、行為・行動を可能ならしめるもの、の5つ。つまり、「とある技量・能力・性格などを備えたキャラクター達が、とある場面設定の中で、各々何らかの目的や動機をもって行動する」。どのような技量・性格のキャラが、どんな場面で、どんな目的や動機を持ちつつ絡み合うか?はそれこそ無限に可能性があり、そのために様々な物語が描けるのだけれど、上に挙げた5つの要素はまあ最低限必要であろうという考え。

ところで、そもそも私がことばの力に注目するのは、私たちの実生活における行動そこに何となく現れる傾向、それらに影響を及ぼす考え方感じ方ものの見方を分かりやすく説明するためなので、「とあることばの連なりが現出させる物語性」というもの自体にはあまり興味がない。言い換えれば、私にとってプロットは、「どうやって物語性のある言葉のつながりを生み出せるか(書いたり話したり)」よりも、「一見物語でも何でもないように見える普段の発言などを、(あたかも物語であるかのように)プロットの構成要素に沿って読み直してみる」という分析の方法として重要である、ということ。

そのような分析方法が面白いのは、そもそも物語の文学的研究から発展してきた理論が、日々の行動・ことばの使い方・考え方の傾向、それが形成されていくプロセスの分析にも応用可能であるというところ。シンプルに言えば、物語を物語として読むことができる、ということと、私たちが日々何気なく駆使・起動している技法との間には、密接な関係があるらしい、ということ。

特に最近注目されている関連性としては、共感や他者の行動、考え方、感じ方などを理解可能としているプロセスや方法。物語を物語として読むことができる、ということは、フィクションで、登場人物が架空のものではあっても、その人の考え、感情、行動の目的や意義などなどが、「分かる」ということが、一つの大きな要素となっている。(単に「分かる」だけでは物語の世界に没入することはできず、「リアリティ」というか「自然と’ありうる’と感じられるかどうか?」なども、物語全体を「理解する」ためには重要。)つまり、物語を読む中で、読者は物語の中の登場人物と、或は著者と、考え方や気持ちなどなどを重ね合わせたり、差異を感じたりしているということ。したがって、普段の生活の中で、触れ合う人々の気持ちや行動の理屈が「分かる」或は最低限「類推ができる」という能力と、物語を読む中で読者が経験していることとは何らかの関連性があろう、ととある界隈では考えられている、ということ。プロットを分析手法として、日常のことばを読み直してみる、ということは、そのことばが表象している事象、事件や内面的主観的出来事(感情や感覚など)を参照点として、それが異なる人々によってどのように経験されていたであろうか?を様々検討してみること、とも言える。

プロットの5要素:人物、行為・行動、場面、目的、行為・行動を可能ならしめているもの、に沿って人々のことばを読み直してみる、というのは、言い換えるならば、特定の事象・事件、或はとある人物の内面的主観的出来事に関する記述について、様々なストーリーラインを仮に創作してみること。何故あえてそのように、’多様なストーリー’を’創作’するのか?却って事実関係の正確な理解を困難にするのではないか?私の目標の一つに、「あえて複雑にして見る」というものがある。これはポストモダニスティックにオープンエンディッド!を宣言して放置するためでは全くない。物語を読む中で、様々な人々(或は人のようなもの)の行動やその理由、気持ちや考えなどを、空想上ではあっても「経験」できるということは、「読む」という行為は、私たち一人一人の「経験」をより豊かにしてくれるはず。しかしながら、単に「多読せよ!」、「登場人物の立場に立て!」などと言うだけでは、あまりにも方法が漠然としていて一人一人の素養、センス頼みになってしまう。私たちは一人一人現にことばを使って日々考え、生きているわけだから、大切なことは、その技法を明らかにすることだろう。

「読む」という行為が私たちの経験を豊かにしてくれる、ということについても、一体それはもっと具体的にどう豊かになるのか?大事なことは、実は量(多読)ではない。どれだけ「多様に」読めるか?なのだ。「多様に読む」とは、とある事象・事件、或はとある人物の内面的主観的出来事に関する記述について、自然と’ありうる’と思えるかどうか?合理的であるかどうか?道徳的に正しいと言えるかどうか?などなどは一旦おいておいて、より多くのストーリーラインを創作してみる、ということ。プロットを構成する5要素は、それをより容易にするためのツールなのである。その効果についてはまた別のノートで詳説したいと思います。



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