ちょっとずつ分けるということ

それってお金?

どうも違うと思う。

人っていろんな面がある。

でもどんな人でも善か悪かというと善の方を望む。

いろんな逡巡を繰り返し悪を選ぶ場合だって、選ぶ以上はそっちの方が善なんだ。

長い人生、常に正真正銘の善や大多数が善とするものだけを選べるわけではない。

なら、より安定的に選べている人々が、なかなか巡り合えない人々に選ぶ機会を譲ってあげられないのか?

これはモノやカネのように「はい。これどうぞ。」というわけにはいかない。

カギは、大多数が善とするもの。

これを柔軟に解釈可能にしてあげる。

そうすれば、大多数が善だと言っていることが、必ずしも絶対的なものではないということぐらいは少なくとも共有されやすくなるはず。

では、人はどうやって大多数にとっての善というものを察知して、そして、守ろうとするのか?

周りを見回す。

おっきくはみ出てなければまず大丈夫。

勿論図らずもダメ出しされるなんてことも頻繁に起こるけど。

周りを見回すというのは何も間違っちゃいない。

そしてそうして周りとそろっているかどうか?を気にすることも。

弱点はある。

全く厳密さがない。

大昔から迷信や言い伝えや神話的なものが幅を利かせてきているとおり。

科学というのはそれらを余裕で「根拠なし」と証明していく力がある。

一般庶民も現代では科学の成果を享受していて、それは物質的な豊かさだけではなくて、これを信じておけば、神話や噂話なんかよりもよっぽど安心して生きていける、という考え方、ものの見方、精神的拠り所を得られる、という点でも。

但し、ご承知の通り、全ての人が厳密な科学的手法を身に付けているわけでもないし、科学的手法自体も決して万能というわけではない。科学的に厳密であろうとするならそれは全て後付け。起こっていないことは本当は言ってはいけない。でも、人間って予測せずにはいられない。よって、科学的手法で確認された法則。より厳密に精査された過去の出来事から導き出された法則。それらが、それほど厳密なら。。。ということで様々な予測に活用されてしまうわけだ。

天気予報が何故外れるのか?そんなの当たり前ってみんな分かってはいても、そして、たまにおもろい天気予知能力を発揮する人が現れても、天気予報を信じる。そして、外れると「当たらねー」と文句を言う。

科学は基本、予知はできない。

だけど、科学なら予知できなきゃ役に立たないとさえ思われている。

勿論、日本列島が10年後にアメリカ大陸と地続きにはならない、とか、うちの扇風機は来夏も回り続けるとかいうことは言える。”科学的”根拠に基づいて。

でも、人間があれこれと当たる当たらないについて話題にしたがる予知。こりゃ科学にだって予知は無理。

そうは言われても科学を根拠に先のことを論じたがる人々が消えない以上、科学だってただの神話もしくは現代人たちにとっての宗教と言っても過言ではないだろう。

科学の弱点というのは密かに宗教と化しているということにとどまらない。バカが賢いと言い張れる。

バカというのは自分の都合のいいところで厳密なる科学的探究を止めているのに、科学の代弁者だと思い込んでいる人。

この意味でのバカにも色々な人がいる。

最も害のないバカは、端っから科学的探究なんてしない。つまり厳密に言うとバカではない。

現代のように科学がある程度必須と信じられている社会では、どんな人だって一応齧ろうとはする。そして、齧ったからにはもうそれが面白くってやめられないというバカが真の科学者(これも超越しているという意味で害のあるバカとは一線が画される)。大多数はそうでもない。つまり、科学とは、なるべくできた方がエライんだろう?という程度のもの。心の拠り所として信じているのとは別次元の問題として、自分がとある社会で優位でいられるかどうか?のリトマス紙のようなものとしてとらえられる。

そうなると始まるのが、”○○の究極の知”なんて本当はそっちのけなのに、究極とか達人とかから始まって、マスターだのミスターだのボスだの雑魚だの、、、、という人知の粋を尽くしたランク付け。バカでしょ?人間って。

そんなもんのためにあるんじゃないって言ってんのに全く分からない。。。

科学が多くの人々の心の拠り所として機能している以上そういった事態は余計に避けられない。

つまり、(ランク上の)究極(のバカ)は雑魚よりも賢いと言い張れるという。。。何故なら究極も雑魚もみんな科学は大事と信条として信じているから。まだ雑魚ならランク付け競争に参加しているから仕方ないともいえるけど。どうよ?先に登場したような本当はバカではないランク付け競争なんて知りもしない人々に勝手にランク付けして見下すほどのバカって。。。

科学ってほんとに取り扱い注意なんですわ。

そもそも人間って中途半端なもんだから。科学的探究なんてみんなができるわけがない。

いくら確率が高いからって、やっぱり予知能力まではないってことは知らしめ続けなければならない。

つまり、科学を宗教の如く心の拠り所として信奉している人々(知の探究手段として取り組んでいる人ではなく)は、「カガクエライ!」ではなくて、「俺ら弱ぇ~」と知るべし。特に頭がね。

そうはいっても頭の強さって個人差あるし、鍛えたりして変わりもするし、バカの一言で片づけては何の益もない。

そこで、私たち一人一人が無意識にでも例外なく携わっている役割に注目する。

他人を信じてとある価値を差し出して、より多くの人々の用に供するということ。

事実、生きておれば誰もが何らかの価値を差し出している。自己利益のために使うのではなく。ただ昨今は、差し出した先を信頼して、ではなく、やっぱり信じるのは科学。あるいは合理的思考から導き出される正しさ。平等(人権とか契約順守義務とか)。これを一々一つ一つは面倒だけど、なるべく自己の判断に基づいて、生の人間をこそ実は信じているんだって評価し直す。

中々自分自身のあれこれを振り返るというのは難しい。何をどこまでやるか?が本人次第だから。特に似非個人主義の自己責任論の世の中では「へん!おれぁここまでやったぜ!」みたいな感じになりがち。なので、とりあえず自己ではなく、他者に注意を向ける。ただ自他をそろえるためやそろっているかどうかの確認のためではなく、注意を向けた他者が信頼しうるか否かを評価するために。

弁が立つ人にせよ、知識が豊富な人にせよ、よく見てみるとやっていること、というのは、自分自身とその他の(基本的には聴衆と想定している)人々を、面倒な信頼関係云々、評価とかから解放してあげている。つまり、話していること、その中身たる知識を、自他共に信じるように仕向けているということが分かる。

パワー。

動員力?秩序形成・維持?生産力増強?

目的は色々あるけど、誰もが影響を受けるのは、一々出会う一人一人、物事の一つ一つを、自分の感覚だけを頼りに判断しなければならない、という事態は避けられる、ということ。

多くの場合パワーの行使は善意に基づいている。

どこで問題が大きくなるか?

善意が害悪を生み出してしまうターニングポイントとは?

やっぱり一人一人の感覚が抑圧され過ぎることが問題と思う。

自分だけの感覚に頼るのは苦しい。だからといって完全に目を背け、無いことにするという形で抑圧し続けてはいけない。何故なら人間はマシンにはなれないから。

得体の知れない、科学的分析にはすぐには向かない、一人一人の感覚。これをともかく「在るモノ」として、科学的に分析することはできないか?

よくわからない以上、一人一人の感覚なんてもの自体は科学的には取り扱えない。いくら脳みその中身がどんどんと分かってきたとしても。

でも。

科学がやってきている営み。なるべく曖昧さを減らして、厳密な定義で置き換えていくということ。これを、そのなんだかわからない一人一人の感覚のようなもの、つまり、順次減らされていっていると考えられがちな曖昧さ、との関係で、実は両者は対立関係にあるのではなく、永遠の友達というか、同じコインの裏表。つまり、どちらか一方の面を見ているようで、実は裏っ側についても語っている、というような関係と見る。

科学の方をどうしても曖昧さの消せない人間に関連付けて見直してみる感じ。

厳密に言うと、従来の科学分析とは違うんだろうけれども、あるがままを見ようという試みとしては、同列に置けるのではないか?

ここまで積み重ねられた科学の成果というのは、乱暴に喩えるなら、機械に成り切っても平気な”マシン人間”(注:本人はほぼそうは思っていない。真正の人間としか感じていない。)だけが専ら活用している。或は、活用したければ”マシンになれ”と、お互いに言い合って競われているイメージ。

科学の成果を「ちょっとずつ分け合う」ならば、広く人間全般に使えるよう道筋ぐらいは示す、という配慮が為されるべきなのでは?より現実的には、”マシン人間”の方が強いわけで、科学の成果だって彼らの方が自在に操ることができることに変わりはないだろう。であるなら、その自在に操れる能力を、例えば、科学的手法で不可避の”限界定義”でもって曖昧さ(普遍的適用の不可能さ)をほのめかすのではなく、現実や人間が曖昧ならば、その曖昧さがなぜ科学的厳密さを追求するのか?それによって曖昧な人間は何を得て、何を諦めているのか?という説明を試みる、という方向に用いてもよいのではないか?

「分け合う」といっても、モノやカネのやり取りとは違う。広く、”マシン人間”には成り切れない人々に、”科学的合理性”といった現在主流になっていると思われる考え方やものの見方について、多様な人間なりに理解してもらう。そこにこそ有限な資源(人々の知力も含む)は投入されるよう仕向けられるべきなのではないだろうか。

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