読むということ

多様に読めることの大切さについて書きます。まずその前に、書くということは、人により様々に異なる制約がかかっている、ということは忘れてはならないと考えています。文才もありますし、同じような才能があったとしても、周辺環境の違いやタイミング、適当な聴衆がいない(いるように感じられない)なども制約となりえます。これに対して、読むということは、勿論人により読解力が異なる、生まれ育った文化・環境が異なるなど、一様であるはずもありませんが、書くことに比べればまだ「トライ」できる範囲は広いはずです。実は、読むと書くとの間に必要な能力・技術に大きな違いはありません。いえむしろ、それらはほぼ同様の能力・技術を駆使するものと理解した方がいいかもしれない。ということは、「では一体具体的にどのような能力・技術なのか?」が明確になれば、必ずしも書くことができなくても、どういったわけで書けない(書かないように自制する)か?もより明瞭に理解できるのではないか?

読む際に私たちが駆使している技術。それは模倣(ミメーシス)です。模倣といっても、別に文字や文章を脳内で書き写すということではありません。ここで模倣するのは、様々な行動やものの動きなどです。ですので、シミュレーションと言ってもいいかもしれません。皆さん当たり前のように日々いろんな文字を読んでいることと思いますが、「読むことができている」という事実の背景には、途方もない量の情報が流れています。計測したわけではありませんが、おそらく、ただ流れているだけで、一切意識的に活用されない情報量の方が、我々が「駆使している」と感じられる情報量を、圧倒的に凌駕していることでしょう。しかし、比較的容易に想像できるかもしれませんが、そのような一見無駄な情報がなければ、私たちは言葉を言葉として理解したり、文字を読んだりすることはできません。そもそも、言葉を言葉として理解できるようになるために、必要な能力があるのです。

それはとある事象が「何らかの意味をもつように」とらえられるようになること。そのようになるためには、途方もないほどの情報を受け取りつつ、その中から異なるパターンをメモリーすることが必要です。このパターンというのは、まずとある事象の発生頻度或は特定の状態が継続する時間の長短。続いて、質的なパターン(似ているか?正反対のように見えるか?など)。これらの原初的パターンや、さらに抽象化の進んだパターンが蓄積されていくことにより、生まれた当初はほぼ意味なんて存在しないかのように感じていたであろう情報が、何となく整理可能なものとなっていきます(分類や階層化)。そのように、非常にラフではあるけれども、一種のシステムのような、体系化された情報群、或は、情報整理のフレームワークのようなものができてくると、情報処理能力上の制約もありますから、どんどんと様々なパターン間の関係性の確認・検証が進みます。この、様々なパターン(原初的な発生頻度パターンから抽象性の高いパターンまで)の間の関係性を確認・検証することが、模倣(ミメーシス)であると理解してもほぼ間違いありません。

つまり、私たちが読む際に駆使している技術=ミメーシスというのは、生まれてこの方、物心つく前から続けている情報処理から継続・発展してきているものなのです。もう少しイメージしやすいように表現するなら、私たちは受け取った情報群の中から、とあるパターンを取り出して、ほぼおうむ返しのように、それこそ「意味も分からず」真似をしようとします。「しようとする」というとそこに意志が宿っていると誤解されてしまうので、非常に難しいのですが、「意味がわかっていない」以上、そこに意志らしい意志はありません。では、単に「反射」と言えばいいのか?というと厳密な「反射」とは異なる。なぜそのような厳密性が求められるのか?というと、私たちが扱っているのは、あくまでも情報であり、情報というものはすでにとある過程を経て加工されたデータである、ということは忘れてはならないと考えているからです。

おうむ返し的模倣というのは、先天的に備わった機能により可能とされていながら、既に「とある方向性をもって加工された」データ=情報を活用しているのです。したがって、意味はまだ分かっていないおうむ返し的模倣であっても、データ量的には、程度の差こそあれ、どんどんと少なくて済むような方向で処理されていきます。「情報」というのは、そのような方向性をもって処理された(されていく)データである、と理解できます。おうむ返し的模倣ですら処理するデータ量が少なく済むよう機能しているわけですから、私たちが見聞きしている、感知しているといえる状態になってしまったものというのは、現実世界そのもの、ということはありえません。つまり、ある程度抽象化されたものを取り扱っているということです。

このような抽象化の過程の中で、ようやく私たちは日々出会う事象に「何らかの意味があるように」理解できるようになるのです。多様に読めるようになるためには、しかし、「意味」といったより確定されたパターンではなく、むしろ、抽象化のために捨て去られる情報にこそ注目する必要があります。結局捨て去られるわけだから、そのことについていくら考えたところで、それらを把握できようはずもありません。しかしながら、把握できないことは、現実世界に存在しないこととはいえません。であるならば、一体どういう仕組みで捨て去る情報とそうでない情報とが分けられているのか?を知ることが大切なのではないでしょうか?

上述のような情報処理の仕組みを理解するためには、「解釈」についてより厳密に理解し直す必要があります。そもそもデータ量が削減される方向に進むプロセスに、人間(或は神?)の意志なるものは存在しないわけですから、「解釈」というのは変ではないのか?ここで私が説明する「解釈」というのは、かの『薔薇の名前』で有名なウンベルト・エーコの受け売りなのですが、ほぼ無限に多様な物質が既に存在する世界を想定します。このような世界においては、特定の相互に関連した動きをする異なる二つの物質が存在或は発生する可能性が十分に高いと考えられます。どのようにそのような二つの異なる物質が存在するか?は全くのランダムなわけですから、それらが相互に関係し合うかどうかも運次第といえます。しかしながら、ひとたびそのような相互の関係性が生じたとしましょう。無数に多様な物質がその世界には存在するわけですから、その相互の関係性を感知する物質がそれら二つの物質に近接して存在することも十分考えられます。例えば、物質AおよびBが出会えば、常に反発し合うなら、その動きを感知する第三の物質Cが存在し、この物質Cが物質AおよびBの反発し合う動きを継続して感知するような位置関係にあるなら、物質Cは物質AおよびBの全てを知らずとも、「AとBが出会って反発し合う」という情報をまた別の物質Dなどに伝達することが可能となる、という考えです。「解釈」と言うのは、必ずしも物質AやBの全てを知らずとも、それらの特徴的な属性について知ったり、知るための手がかりを得たりする。よって、あたかも意志があるかのごとく、「知りえていないはずのものについて類推を働かせ、新たな情報を得る或は創造する」ように振る舞う第三者が存在するように見えるわけです。人間の我々からすると。

この「解釈」にはしかし、人間の意志は介在しないわけですから、私達がとあるパターンを観察可能になるためには、そういったパターンを構成する規則性なり継続性なりが、シンプルな3者関係ではなく、より多くの参画者も巻き込んで発生しているはず。そうでなければ、人間である我々にとって「意味あるパターン」とは映らないでしょう。ということは、人間である我々がとあるパターンを認識しているということは、既に圧倒的多量の「パターンになりえなかったデータ」が発生しているはずです。そのいちいちを捕捉しようとすることは、少なくとも日常生活を送る上では文字通り「無意味」でしょう。日常生活を送る上で意味があると考えられるもの。それは、人間である私たちが見誤ったり、見逃したりしがちな情報といえます。

エスノメソドロジーというのは、そうした情報を、かなりラディカルな方法で炙り出す方法として知られています。似たような方法に会話(対話)分析なるものもあります。要するに、私たちは普段から既に様々な思い込みや仮定をあたかも原理原則ででもあるかのように携えながら現実世界と対峙しているといっても過言ではないのです。物語の理論や分析手法では、そうした思い込みや仮定を、書く人、読む人そしてテキスト(文字情報に加えコンテキストも含む)の3者の相互干渉課程で蓄積されるものと捉え、普段の言葉から比較的お堅い文章にまであらゆる種類のテクストに当てはめることにより、特に「読む人に実感してもらえる方法」の開発を目指しています。

多様に読めるようになるための秘訣。それは、3+1といえます。「3」は先ほど「解釈」について説明した際の、最もシンプルな、情報を生み出す3者関係「+1」というのは私たちです。情報がどんどんととある方向性をもって生産されていくのに、「+1」は必要ないわけですから、私たちというのはある意味余計な存在とも言えます。現在確認されている生き物の中で、私たちのように言葉を操るものはいないわけですから、「+1」というのはかなり特別な存在ではあるでしょう。しかしながら、言葉を操れなくとも、「+1」の存在にはなれる。なぜなら、そこに情報を生み出し続けているものたちが存在するから。決して情報そのものの生産には関与していなくとも、「おおー。なんかこいつらやってんなー。」ぐらいの情報は受け取れる。というか、望むと望まざるとに関わらず、受け取ってしまうものが存在する。無数に多様な物質が既に存在しているような世界では特に。

このように「+1」の存在を、特別ではあるけれどもそれほどでもない、と捉えることで、私達が日常その利便性のために主に用いている二項対立的世界の捉え方を脱することが可能になります。何故なら、「+1」というのは、あくまでも偶然に発生しうるもので、しかも発生するために特に自然に決められた法則も必要なければ、人間の意思なるものも必要ないからです。むしろ、人間の意思なるものは、「+1」が時間をかけてとあるパターンをそれ自身で形作っていくもの、と考えられます。

よく、物事を俯瞰的に見る、ということが物事をうまくマネジメントするために有効な方法として取り上げられます。「+1」というのは、かなり膨大な数のトリオ「3」の振る舞いを感知する立場にあるわけですから、ある意味”俯瞰的”であるとも言えます。しかしながら、意識であるとか、より洗練された知性なるものは、あくまでも「+1」が時間をかけてとある形を得ていくものなのですから、一般にマネジメントの文脈で言われるような”俯瞰性”よりももっと原始的なものと考えた方がよいでしょう。そのように考えるほうが、私達が、私達自身を見る見方がより柔軟になるといえます。要するに、意思であるとか、その意思によってより洗練された知性を得る努力をすべき、とかいうことにおかれる、過剰な価値、をちょっと緩めてあげることができるのです。

この過剰な価値を緩めた状態が、多様に読めるようになる、という状態です。先のノートで少し示唆させていただいたとおり、多様に読めるようになる、ということは、私達の道徳観というものにも関係があり、よって、社会を構成していくにあたってのルールについて、その考え方、感じ方を大きく左右させるものなのです。少し複雑になってしまった、情報発生の仕組み、解釈の話、それらが私たちが営む日々の社会生活とより密接に関係したものである、ということを今後のノートでさらに簡便に説明できるようにしたいと思います。




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