もうちょい力抜いた方が

お仕事とは?

大事。

尊い。

生きる糧。

生きがい。

資本主義的生産体制が整って賃金労働が当たり前になってくるにつれ、労働とそれに対する報酬と生産されるものとの間で距離感というかある種分断が感じられるようになって久しい。

21世紀の賃労は製造業よりもサービス業の割合が増え、労働と報酬と提供するサービスとの関係性については若干解釈の自由度がありそうな雰囲気で、例えば賃労者とはいえ、働く意味やら投入される知力労力を会社の商品たるサービスと直結させることもできるし、所詮はマネジメントの方針やらに左右されざるを得ないとか、シェアホルダーに利益はがっつり持っていかれるとかはあっても、奴隷的社畜でしかない、などと思わなくても日々の労働に純粋ポジティヴに勤しめる人も少なくはないだろう。

労働は致し方なくやるものなのか?

いやいや、人生のかなり長い部分を費やすわけだから、何らかの意味・意義を見出すべきだろうか?

極論すればどっちも正しい。

けれども後者の方は別に労働に限ったことではない。

何するにせよ、そこに何らかの意味を見出せるならその方がいいに決まってる。自分自身にとっても、周囲に与える影響を考えてみても。

であるなら、特に労働に限って言うことでもないのでは?

ポジティヴに行けるならポジティヴに行こうぜ!

でもそれって常にってわけにゃいかない。

ましてやお仕事。選り好みにも制限がかかりがち。ものは考えようといったって、無理くり捻り出した意味があったとして、実はとんでもないウソ、全く現実を反映していないファンタジーであって信じ込めば信じ込むほど狂信者化してしまうという悲劇にだって陥りかねない。ある程度の集団でそんなのやられた日にゃあ単なるアホの集まりでは済まないってことにもなろう。

これまたお仕事に限ったことではないのだけれど、あんまりのめり込み過ぎない方がいいのでは?

趣味ならまだしもお仕事って社会的影響が段違いだし。

何故?って。

やっぱ私たち人間が生活していく上で必要なものを生み出すからかと。

そう考えると働く人個々人の意義なんてちっぽけなもんなんだと思う。比較の問題として。自分以外の結構多くの人が生きてくのに必要な何かを生み出しているんだから、そっちの方が超重要。

こういう風に言うと、おお!たくさんの人の生活に貢献している!とっても意義のあることだ!みたいなのを称揚しているように聞こえるかもしれないけれど、私の意図はそこにはない。そんなん言い出すとゼッタイ数の競争になるに決まってるから。。。どっちかというと個々人の貢献度みたいなもんはどうだっていいと考えている。

お仕事はやれる人がやる。

以上。

やれる人ってのはどっちかというとラッキーなのである。社会に貢献できるということもそうだけれども、そもそもやれるお仕事ってのがあるって時点で。

嫌々やらされている仕事もあるよ?

うん。

でもまあさ。嫌々やってたってそれぐらい大目に見てやれば?

奴隷労働は?

基本ダメよね。

まあただ、労働にまつわる契約とかっていうものも怪しいところがあるからなー。どこまでが許容できる強制か?そうでないか?なんて曖昧なもんだよね。今なんて契約や規則に限らず、評価基準ての?ガシガシガシガシ「このチェックポイントに従えば市場価値が上がる~ユーティリティが上がる~」みたいなもんで相当がんじがらめにされていて、いわゆる強制力がはたらいている。でもその正当性ってホンマに客観的事実?実証研究に基づいたフェアな基準っていえるんか?ってのは大いに疑問だしね。

インドのカーストみたいに美談ではないせよ、なぜ私たちはこの種のお仕事を生業としているか?について「これこれの星の下に生まれた」「実はなになにの生まれ変わりで~」「私たちの守護神様は~」のような話作って、それ代々受け継いで半ば自発的に従って、、、みたいなこともあるわけで。

魂込めれば神聖なものになるとか神聖なものだから魂込めろとか安易には言えないと思う。お仕事って。

大事なことは間違いないけれど、あんま力入れ過ぎない方がいいよ。きっと。

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