シンプルでも実践するのが難しいロジック

生きていれば親兄弟を始めいろんな人に出会い、そんないろんな人からいろんな評価を受ける。

「評価を受ける」なんていうと堅苦しいけれど、私たちは誰だって自分のだけではなく、他人のキャラなんかもざくっとでも分類していく。

理想は、まずは先入観なしに、付き合いながら、段々と理解が深まることだけど、現実的に、まっさらな状態から始める、ということはほぼ不可能だ。

結果的に、多かれ少なかれ、時と場合にもよるけれど、「それちょっと違う」みたいな分類のされ方をして不満を感じることもある。

特に他人のことなんて、100%理解できるわけがないのだし、どんだけ証拠を集めたつもりでも、下す評価はあくまでも推測の域を出ない。

ということで、他者からどのように評価されようが、あまり気に病み過ぎない方がいい、という結論が導かれる。

「あまり...過ぎない」というのは本当に大切。日常生活に支障をきたしてしまいますから。

とはいえ、「あまり...過ぎない」というのは、程度の問題で、ある程度は気にした方がいい、という面があることも見逃せない。

どんなに理不尽で、合理的な分析や検証もされていない、いい加減な評価でも、完全に無視してしまうというのは、現実の人間関係のことを考えると、あまり望ましくないように思える。「淡々と聞き流しておく」を通り過ぎて、「あんたの言うことなんか聞くもんか」のような敵愾心に変化してしまうと、どうしても円満友好な関係を維持しにくい。「淡々と聞き流す」場合も、必要以上に嘲りが入らないとも限らない。

態度でなんとなくそう感じられる、とかではなく、具体的に言葉で言われた場合は、一考の価値があるのではないか?とんでもない罵倒にしか過ぎなかったとしても。

言葉に出して言う、ということは、何かがある。

それが自分自身のキャラだとか、とった行動の意味だとかで、しかも否定的なものである場合、聞き流せたとしても、ちょっとしたわだかまりのようなものは残る。傷痕と言っていいかもしれない。つまり、完全に無かったことにはできない。

それでは、ということで、残るんならよいように利用しましょうと。

極端な話ですが、私という人間が存在していなければ、理不尽で無根拠な罵倒、みたいなものも、私に対して投げかけられることはないわけです。

出て来ちゃった以上は、何かがある。しかも私という人間について。

こうなるとちょっと「あまり気に病み過ぎない方がいい」の原則に反するような気がしますが、まあ続けます。

言い換えると、他者から発せられた言葉の中から、私にまつわる真実を探す、ということ。

具体例としては、「私の行動のどの部分が、彼(彼女)をして、そう言わしめたのだろう?」とか。

あくまでも記憶に頼るしかないので、大した分析もできませんし、自分自身のことだってかなり集中して観察してみても、全てを把握できるわけでもない。ということで、分析の中身は大して重要ではない。

大事なのは、私ととある発言者との間の境界線を行き来すること。

彼(彼女)は一体私の何をどう見ていたといえるのか?

その見方だと、明らかに私が意図していた意味が伝わっていない。

みたいな感じで。

とんでもない誤解に基づく罵倒であったとしても、できれば誤解のタネを探り当てるような気持ち。

何故そのようなことをする必要があるのかというと、今後の平穏な人間関係のため。

明らかな誤解であればあるほど、私の側では、相手に非がある、と表明したくなる。「とんでもない奴」と断じて没交渉とするかもしれない。

でも、誤解のタネはあくまでも私の側にあったんだ、と思えれば、単に無視、没交渉、とするよりも、やややさしい。これは、実際の発言者に対して、というだけではなく、それ以外の人々に対しても。

なんとなれば、私としては、自分の中にとあるコンテキストで、とあるタイプの人に出くわせば、彼らを誤解させ得る要素がある、と知ることができるから。弁えておれば、そうでないよりも対応の幅が広がる。まず、予防ができるだろうし、もし、再び同じような誤解を引き起こしてしまっても、即座に訂正できるかもしれない。

無用な諍いは避けたい。

でも私たちは誤解することは避けられない。

つまり誤解が発端となって諍いが起こることも避けられない。

いうなれば同じような間違いをし続ける。

無用な諍いを避けたければ、一番確実なのは、自分自身の中にある誤解されやすい要素(タネ)を知ること。

他者の誤解を責めても仕方がない。

間違っちゃいけないのは、どうせ誤解されるんだし、それでいいや、という開き直りとの混同。

あくまでも、他者と自分との境界を行き来しなければなりません。

彼(彼女)にとっての真実(の私)を想像してみる。

これは、他者への一方的なサレンダーではない。

何故なら、私たちは自分自身のことといったって、完全には把握できてはいないのだから。

把握できていない以上、把握するためには他者目線についてできるだけ多様に想像してみるしかない。そうすることで、自分自身の感覚とのギャップを知り、ようやく自分自身の真実の姿らしいものに近付ける。

このように考えれば、自分自身の真実を知るなんていったって、それはナルシシスティックな自己耽溺・陶酔ではないことが分かる。

自分自身をよりよく知ろうとすることは、社会全体のため。

私たちは似たような間違いをし続けるのだから。

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