気付くというのはしんどいこともある

気付かない方が幸せだった、、、とか?

多分沢山そういうことはあるだろう。

でも。

私はどっちかというと気付いてしまうことでかなりドッカ―ンっと落ち込むことがあるとしてもやっぱり気付く方がいいと考えている。

敢えて気付かないことにするという戦略をとる人もいる。

中々完全に実践することは難しいはずなんだけれど、稀に本当にやり切れる人がいる。

そこまでいくと、「相当な事情があるんだろう」と想像せざるを得ない。

「気付きを与えるように」と言うとなんか偉そうなんだけど、コメントとかアドバイスとか?やっぱり相手側に何らかのプラスの変化を期待していると思う。

全くそのような意思はなかったとしても、違う人間同士が会話しておれば、色々と気付かされることってあるのが当たり前。それが言葉のやり取りってやつだから。ふとした表現に触れ、それによって当たり前に過ごしていた物事が違って見えるなんてのは結構あることだろう。

言葉というのはそれぐらい「どういう解釈をするか?」にその意味するところを依存しているともいえる。

ということは、かっきりと自己像であるとか考え方であるとか世界観みたいなものを決めておいて、それに必ず沿うように解釈しようと思えば、それは不可能ではない。

こうして書くと分かる通り、そのようなことが遂行できる=「気付かないことにする」という戦略を実践できる、ということは、相当明晰な頭脳を持っているということ。(生き抜くために必要な「総合的な頭の良さ」ということになるとかなり問題だとは思うけど。。。だって「気付かないことにする」って、平たく言えば、誰がどういう意思で伝えようとしているか?なんてほぼ100%無視する(できる)ということだから。)

そこまで極端な人はほとんどいないと思うけれど、誰でも似たような傾向は持っていると思う。見たいように見る。

他方、「気付かせてやろう」みたいな意志がありありと感じられると、反射的に「聞きたくない」って思ってしまう部分もある。

「気付きを与える」でも偉そうなのに、「ほら。やっぱりそうやろ!」なんて態度で来られたら、特に図星であったときなんて、なんかめちゃくちゃ腹立ったりする(勿論うれしく感じるケースだって皆無ではないけど)。

人のあれこれを”読める”というのはそれ自体は悪いことではないとは思う。

でも例えば暗算が速いとかの能力とは違って、「凄いやろ!」って自慢するようなもんでもない、と私は考える。

まあ、「気付かない」とか「気付かされることが全くない」ということは実際はないわけで。。。

ということは、「敢えて気付かない戦略」をとるような場合だって、解釈の基準となる「自分になるべく都合の良い世界」は常に更新され続ける。そういった更新も上手にやっていかないと、「敢えて気付かない戦略」も続けてはいけない。(つまりそれぐらい「敢えて気付かない戦略」の実践は難しいということ。)

何が自然か?というと、やっぱり様々なコトには気付いちゃうということ。

ならば、お互いやさしくあればいいんじゃないか?と。

事実を図星に指摘されたって、必ずしもすぐに対応できるとは限らないし、図星って感じる以上、言われた本人の方が言われる前からよっぽど分かっているって場合も多々あるだろう。

気付きってのも、まずは自分自身からなのかな?と。

大きなお世話。

折角気付いて伝えることが、そうなってしまわないように。

気付きの能力を有効に活用していきたいものですね。

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