やっぱヒトって成長を見せないかんもんなんかね
十年ぐらい前、自分より四、五歳若い人たちに「頼もしーなー」と感じさせられる人が少なからずいた。
私自身の好みが十年前とは大きく変わってしまったということもあるのだろうけれど、今はちょっと残念というか手放しで「それでいいよ」とは言えない。キレイにそろってそんなパターンを描いている。
仕事に家庭に自分なりの余暇に、、、真面目に取り組み続けているのだろう。継続は力なり!真面目が一番!表立って文句をつけなきゃいけないようなことはない。
でも残念。
何が?って。
臭うのよね。
自分は(スーパーマンでもなんでもないけどできないなりに)考えて問題解決しようとしてきたし、(当然パーフェクトであるわけはないけど)達成してきたものもある。
という感じの自負(?)
繰り返すけど全く悪いことではない。
悪くないからこそ臭う。
ええやん?そんなに(それなりに?)一つでも二つでも前進できてるんならそれで。なんかそれ以上アピールせないかんもん???
できる人はほっといてもできるって分かることやし。
その人本人がどうこうというよりも世の中前進したいと思ってても前進なんてままならんって人だってたっくさんいるし、前進する気がなさそうに見えたとしたって、そりゃその気も起こらんくなるような事情ってもんがあったりもする。
「やる気の問題」とか「落ち着いて一つ一つできることから」とか言って聞かせてカンタンになんとかなるもんじゃあない。
目に見えるスコアを上げるって”ことだけに”集中してちゃいかんと私が繰り返し言うのはそういう中々いかんともしがたい事情でもって私たちの暮らす世の中は出来上がっているから。
生きて行かなきゃならんとか、個々人それなりに自己実現ってゆーの?何か確かな手応えみたいなもんは必要だろうし、それを得るために努力したって構わないというかどんどん積極的にやっていって正解と思う。
ただそうやって血と汗を流して会得したメソッドやそれによって得られた成果に基づいて、「そこそこやるぐらいだれにでもできるはず」なんて甘い想定を振りかざしてはいかん。
できていない人に出くわしてまず感じ入るべきなのはできる自分の幸運。そういう感覚があれば「自分は与えられたもの、環境なりにこうしてやってきた」なんてあからさまには言えない。口は自然とつぐんでしまうものだろう。
できるってことに伴う社会的責務ってのはかくもバカでっかいのである。
実際できるってことを体現してしまっている以上、そりゃそのまんまやりつづけるより外選択肢なんてない。
キリがない?
そりゃできない諸事情に取り囲まれている人間だって同じこと。
生まれさせられて生きさせられているって点においては皆平等だ。
この点に差異をつけようとする考えや行為・態度はいかなるものであっても不義不倫である。
より多くの面倒を看るということの意義・大切さについて、根本的な理解を構築していってもらいたいものだ。ポイント上げたい意欲が湧いているような幸いな人々には特に。
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