名場面

レイ・ブラッドベリ『カ氏451度』。

ほんの序盤で出会った。

主人公ガイ・モンターグと少女クラリス・マックレランとのやりとり。

クラリスがモンターグを他の消防士(仕事は火を消すんじゃなくて本を燃やすこと)とは違っていると感じることを話す場面。

自分が月のことを話したら、月を見てくれたり、草木の話のときはそちらの方に目を遣ってくれたり。

それらを指して「時間を取ってくれた」と表現する場面。

すごい印象的。

こんな何気ないことに注意が向いているのはクラリスなんだけれども、この一節をものした作家さんってどんな感性を持っていたんだろう?

じんわりとした感動を覚えました。

誰かと一対一で話していれば、お互いに注意を向け合うのは至極当たり前のことのように思える。

でも注意の具合って違うんだなあと。また、自分が想定しているのと全く違った見方を相手はしているものなのだなあと思い出させられた。

特に一対一なら、相手は一人なわけだし、注意が向かないわけはない。とはいえ、私たちは歳をとればそれなりに経験を積んでいくのでいろんな人物についての先入観もできる(プロトタイピングもする)し、人との対話を無難にこなすための知識やセオリーも固まってくる。それらがいつの場合も悪いとは言わないけれど、できることなら、常に顔を合わせる相手でも、まずは現物に目を向けられる方がいい。自分も相手も気分が違ったりもするわけなので。

それよりも、根源的なことに目を向けるなら、人間はモノにだって注意は向く。やっぱりよく知った方が安心できるというか、何らかのアイデアがないと、次に進めない。

詳しく正確に理解できた方がいいのは山々なんだけれども、出会うもの全てを詳しく正確に、というわけにもいかない。取捨選択。。。

この辺からして怪しくなってくる。

全部は無理なんだけど、完全にとある情報は捨てて忘れてしまうというのは恐ろしいことでもある。

対人間の場合、相手に注意が向く、というのはものすごい情報のやり取りがなされている。ほぼ反射的に。相手が発した言葉に含まれているものに目を向ける、なんてほぼ反射的な反応なのではないだろうか?それでも、クラリスが「わざわざ時間をとってくれた」と言うなら、その反射が起こらない場合も多々あるということだろう。

反射が起こらないということは、きっと何か人々が前提として備えている知識や考えが作用しているはず。

相手が話す言葉に出てくるものを見たからといって何がある?

話が通じているのならいちいち目を向けなかったとしても何も問題などないだろう。

でも。

多分違いはあるんだろう。

つまり、人間同士のコミュニケーションって、信号を伝え合ってそれを理解し合う、というだけではないのだろう。

人と人とが出会って言葉を交わすこと。

いや。

大した言葉は交わさないまでも、出会ってお互いの姿や動きを見合う見せ合うだけのことにも膨大な情報が発生し、それぞれで解釈が行われている。

当然様々な予備知識、仮定、思い込みを孕みながら。。。

何気なくやってしまう反応。

これがお互いをハッピーにさせるものならいいのだけれど。

ほぼ反射的に起こることが無謬であることはないだろう。

ほぼ反射とはいっても何も対処策がないわけでもないのが人間。

致命的な間違い(ふとした差別や侮蔑など)はない方がいいし、あった場合は安易に容赦しない方がいいけれど、それでも、間違うことを絶対悪などとして恐れさせてはいけないと思う。

間違ったら学んで直す。

そうした前提で対人関係に向かえるためにも、敬意を払う、ということは忘れないようにしたい。

そうしつつも、本来私利私欲などとは関係なく他者に向けてしまう注意。それは意外に受ける方は嬉しかったりするもんなんじゃないか?ということも忘れないでいたい。勿論嬉しくなんて全くない場合もある。でもそれは反射なんだし仕方がない。

敬意があるならば、間違ってもいいのではないか?

きっと、反射的に向けてしまう注意は、無理やり抑制しようとするものではない。抑制できているつもりになることでもない。結局反射なんだから抑えられるわけがない。

「つもりになる」。

これこそが最も避けられるべき危険な傾向なのではないだろうか?

できることとできないことを弁える。

敬意を払うことが簡単でないのも、そのあたりに由来するのかもしれない。

それでも、臆病になり過ぎず、勇気をもって臨みたいものです。

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