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切れっ端

自分の手で縫い合わせられるならきれっぱしが大量にある方がいいのかもしれない。

でも、きれっぱしにも何らかの意味っぽいものがないと、縫い合わせるどころか、見向きもされないはず。じゃあその意味の最小単位みたいなものがあるか?というとそれを特定することは難しそう。

厄介なきれっぱし。その名は情報。

「よい情報が勝負を分ける」「情報通信の効率性」云々は、既に情報なるものに一定の価値観が乗っけられている。

情報はモノである。

という大前提だけでなく、

「よい情報」なるものの定義は出来上がっている。「俺たちが定義する」または「定義の仕方は決まってるのでそれに従え」≒とある方法で定義された情報でなければそもそも情報として認識されない。

対して、あくまでも理論上でしかないけれど、理想状態というのは、

どんな人でも、どんな時にも、どんなきれっぱしであれ、そいつを単独であれ、いくつかを集めて縫い合わせてであれ、その人なりの意味を持つ情報として利用するチャンスが与えられている状態。

情報が情報として認識されるというのは相当な僥倖なのである。

けれども、「あくまでも理論上」と言ったように、現実はそうはいかない。

幸運の寡占・独占が起きてしまう。

まあ発端の大半は善意なんやろうけどね。。。

赤ん坊やちっちゃい子どもたちに話しかけるのだって、別に大人側の意味の押し付けとばかりは言えないしね。純粋に意味を与えたい。ただそれだけ。

ところが、カネというかね。生きていくのに必要不可欠な情報。便利な情報。さらにウマい情報。。。と意味が変遷していくとともに、単なる善意とは解釈できないような意味の乗せ方がなされた情報も出てくる。

どんな情報が最も多くの人間をより幸せにし得るか?

そういうことを考えたいらしい。現代。

私は情報については上述の「理想状態」を大前提に考えるようにした方が、より多くの人間がより幸せになるんじゃないか?と考える。

「理想状態」の、これまた前提としてあるのが、

とあるきれっぱしが何らかの意味をなす情報となり得る瞬間というのは、一人一人、その時その時、おかれた状況によって違ってくる、

ということ。

人それぞれ、予め決められた道なんてものはない。

けれども、生まれ育った環境などによって、それほど選択肢がなさそうに見えるという現実もある。

自由なんだけどそうでもない。

全く出口がなさそうに見えて、なにがしか抜け道がないわけではない。

情報として既に成り立っているモノには、事実関係と何らかの意向とが同居している。

事実関係だけうまく取り出せるのがよさげに思えるかもしれないけれど、純粋無謬な事実関係なんてものはどこを探しても見つかりはしない。セットになっている「何らかの意向」。これも併せて上手に活用しないといけない。

現代。特に21世紀とかその直前いやもっと以前から、私たちは自分自身の欲求・欲望に基づいて行動する、という個人像を当たり前に受け止めるようになっている。

ところがどっこい。

私たちの欲求や欲望なるものほどあやふやなものはない。

眠たいから眠りたいと思ってるのか?お腹が空けば食欲が発動されているといえるのか?

当然、疲れていれば寝なきゃそのうち死ぬだろうし、食事だって規則正しくバランスよくがいい。

けれども、「私が常にそれらを欲している」と断言できるか?脳ミソから送られてくる信号を正しくキャッチし理解することが、「欲求を把握している」ということなのか?

通常夜になって暗くなれば眠くはなるけれど、夜更かしが板に付いてしまうと中々早く床に就けないとか、一日3食とか。。。私たちの行動というのは習慣に支配されやすい。生きて行くのに必要な栄養素は十分足りていたって、3食食べなきゃ落ち着かない人も少なからずいる。

生命維持の基幹ともいえる睡眠や食事でさえそうなんだ。やりたい仕事?余暇にやりたいこと???じ、自己実現???

欲求・欲望が何も存在しないわけじゃあない。けれども、結構ぼんやりとしているそれらは、ちょっとした外からの刺激にめちゃくちゃ影響を受ける。情報に乗っかている「何らかの意向」ってのがそれ。

習慣とかクセとかいうと、もうしばらく繰り返されて自分のものになっていると言えるけれど、それらだって情報に乗っかっている「何らかの意向」で形作られたものもあるだろうし、よってそいつにグイっとチェンジされることもある。

「こだわりのグルメならこちらでございますよ」

「当ブランドはより高級感がございます」

周囲にどういう人間がいるのか?とも相俟って、本当に自分がそれを食べたいと欲しているのか?そのような装いで身なりを整えたいと思っているのか?は非常に曖昧。

自分自身の欲求・欲望なんて大部分が外からカタチを与えられている。

情報に乗っけられている「何らかの意向」には敏感であるべきなのだ。

「何らかの意向」というのは消費意欲促進のみならず、ブランドによる社会的地位・安全確認或いは自己実現意欲の刺激まで、複雑・巧妙に入り組んでいる。善意もあれば悪意もある。

但し、外からやってくる「何らかの意向」に注意を向けるとはいえ、それもこれも全て自分自身の欲求・欲望なるものに目を向けるため。素になる素材は既に各々の中にあるわけやからね。そういう未だカタチになっていないものが、どんな風によりハッキリしたものになっていくのか?

いろいろあるからねー。後になって振り返って見ると理屈に合わない行動とか。。。「なんであんなことしたんやろ?」「なぜにこげな分かり切った詐欺まがいに騙されたのか???」などなどなど。。。

そういうあからさまな大間違いでなくとも、一体自分が何を欲している(ことになっている)のか???というのは適宜把握しようと努めるクセをつけておいた方がいい。

それぐらい私たちの欲望・欲求というものはあやふやなものだから。

#宮部みゆき #火車

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