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せんしゅうさん。

 「のだめカンタービレ」で、ちあきせんぱーい💛と追いかけられていた指揮者の卵がいたが、その同じ漢字で「千秋」と書く。
 バイオリニストで、「日本音楽コンクールの特別賞」を取ったという。
「なに? 特別賞って。そういう賞ってあるの?」と聞いてみたが、あるらしい。

 千葉県立津田沼高校の普通科音楽コースと言うのは、プロの音楽家を目指す生徒たちが集まってくるところである。音楽の勉強をするために、音楽大学の付属高校へ行く人もいるが、それだと人生が音楽ばかりに偏りすぎてしまうんじゃないかと、こうして普通の高校にある音楽コースという所を選ぶ人もいる。

 自分の場合、単に津田沼高校に管弦楽部があるというだけで進学して、音楽の勉強は興味がなかったのだが、音楽コースの友達も、何人かは出来るようになる。
 まあ、トロンボーンを吹いていたが、どうもこの楽器、音量がデカすぎる。将来にわたって、趣味で楽器を弾いていくならば、他の楽器をやったほうがいい、そんな風に自分は思っていた。
 高校卒業後、友達何人かで飲んでいたことがあった。そうしたら、「吉川はバイオリンがやりたいんだってよ」と、某わたなべがペラっと言う。そうしたら千秋さんが「えー! すごーい!」と叫んで喜んでいる。
 叫んで喜ぶほど、凄いことをしようとは思っていなかったんだけど、「じゃあレッスンしてあげるから」と千秋さんがバイオリンのレッスンをするということになった。

 と、そこまではいいのだが。
 千秋さんの顔と言うのは、例えば、男と女が寝ていて、千秋さんが夜ベットで寝返りを打ったとしたならば、男が「ギャーッ!!」と叫んで逃げてしまいそうな顔である。
 ひどい言い方をするようだが、現実である。
 顔にはこだわることはないので、レッスンを受け始めたんだけれど、ある日レッスンに行くと、バイオリンが置いてある。
「吉川君、これ凄い楽器なのよ?」と弦をはじいてみると、大きな音が出る。なるほど凄い楽器なのかもしれない。それがどうした。聞けばドイツ製の三十万円。
「え? 俺が買うの?」
「バイオリンを弾くのに楽器は必要じゃない」
 だからと言って、なんでドイツ製の楽器をわざわざ用意するんだよ。そこまで本格的にやりたいわけじゃない。

 仕事をしていなかったもので、おカネの工面も一苦労で、あれこれ大変だった。体調が悪い時にはレッスンを休まざるを得なくなってきて、それほど上達したわけじゃない。
 結局、何年バイオリンを習ったか分からないけれど、大した曲も弾けないうちに、病院のほうでは誤診療が発覚してしまって、とんでもない事態になる。
 レッスン辞めます、と言うことになって、そのあとは千秋さんとは連絡を取っていなくて、いまはどうしているんだろう。

 コンクールで賞を取ったからと言って、プロの音楽家になったかと言えばそうではない。それは純粋にお客さんが聴きに来たいというようなバイオリニストじゃなかった。技術面の話ではなくて。
 しかし、あれだけの長い時間レッスンを受けていると、「…この人結婚したいな」と思うようになっていたのも事実である。いつも白いブラウスを着ている人だが、それが新鮮に感じられる。

 今からしてみれば、結婚とは言わなくても、ずっとレッスンを受け続けていれば、それもよかったのだろうけれど、こっちが発狂して病院に担ぎ込まれるような患者になってしまったら、そりゃ無理だという話で。
 失ったものはいくらでもある。しかし、もし病気にならなければ、ここまで失うものが大きすぎるということもなかったんじゃないか。
 いま、一人でバイオリンを弾いているけれど、まったくもってたどたどしい。腕が痛くなっちゃって湿布なんかしながら、続けている。

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