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『魔法使いの弟子』 G・バタイユ 感想

雑感

 人間本来の欲求とは何か。コミュニティはどうあるべきか。技術により経済が発展した2018年において、より一層こういったテーマについて考えることが必要とされているのではないかと思ったので、感想を書いてみる。

 この本はかなり短いのであるが、それにもかかわらず欲望、恋愛、宇宙、運命、人生論、社会学、神学などについての考察がふんだんに盛り込まれており、久しぶりに哲学で頭の体操をできて楽しかった。

 第二次大戦前(この稿は1938年発表)のフランスの社会と、ナチスを筆頭とした全体主義についての批判なんかもあり、社会学への考察も多分にはらんでいるのでなかなか難しかったが、訳注、訳者あとがきも合わせて読むことでなんとか理解できたように感じる。
 とはいえ短いので、バタイユの入門書としておすすめされていた理由がわかる。

 以下に、本稿に関する僕なりの解釈を述べる。この本は何度も再読することになるであろうが、きっと読むフェーズによって理解の仕方も変わってくるはずだ。優れた文章というのは往々にしてそういったものである。

人間でありたいという欲求を失った人間

 バタイユは、人間であるということを、ある意味で死を受け入れることだと言っている。生を際立たせるのは死への挑戦である。逆に、死から逃れるために自分の生に妥協すること、すなわち苦痛から逃れることは、人間であることを捨てているとみなす。

人間の活動の大部分は、有益な物品を生産する活動に隷属しており、この自体に決定的な変化は望めないように思う。人間は、労働という奴隷状態を、もはや乗り越えることのできない限界とみなしすぎている。

 ”有益な” 物品を生産することは、その人間本来の生きる目的からは基本的に逸脱しているという考えだ。生きるために労働を行いパンを求めることは、生き方に妥協しており、本来の生きる意味を考えるという苦痛から逃れている。
 そしてこれは単なる労働に限らず、芸術、政治、学問など、高次とみなされている所業にも及ぶ。

芸術家、政治家、学者は、人間に嘘をつく任務を引き受けている。これら実存を支配する人々は、たいがいの場合、誰よりもじょうずに自分に嘘のつける人々なのだ。したがって他人に嘘をつくのが誰よりもうまい。

 この世を支配する思想は、こういった”嘘つき”による各々の機能に分断され、それに携わることで人間の完全性はすでに失われていると述べる。

人間でありたいという欲求が欠落しているこの世界には、有益な人間の魅力なき顔のための場所しかもうないのだ。

 有益な人間の魅力なき顔という言葉が思い出させるのは、遊びを忘れた現代社会の人間の表情だ。二次大戦から今に至るまで、社会はこの課題を解決できていないように感じられる。

 以上が序盤の感想。
 続けると長くなりそうなので、次回に恋愛に絡む部分について述べたいと思う。

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