唐揚げと弱音と、書くことと。

唐揚げを食べている。真剣に食べている訳では無い。noteを書きながらだからよっぽど唐揚げには失礼だろう。

突然だが、僕には弱音を吐く相手がいない。身近にいない。面と向かって甘えられる対象がいない。

でもこれ、今に限らない。今までだっていなかった。

そもそも、吐く弱音がない。

いつだってどうにかなると思って生きてきた。きっとこれからもそうだろう。弱音を吐く人には優しく接しているつもりだが、表面上だけなので全く慰めになっていないかもしれない。

なんで他人に弱音吐くんだろうなー。どうせ理解なんてされないのに。吐くだけ損だよ?吐く側も、聴く側も。とか考えている。

僕はどうも、人間らしくない人間なんだろうな、と折に触れて感じる。人並みに感動するし、むしろ映画とか本とかで泣くから、感受性は豊かなんだと思うこともしばしば。でも、対面の人間関係ではそこまで感情を表に出せないでいる。以前付き合っていた彼女にすら、弱音なんて吐いたことは無い。もし弱音に見えたことがあったとしても、それはその場の雰囲気でなんとなく取り繕って述べた、ただの見せかけだ。

きっと、自分の感情をさらけ出すのが嫌なんだと思う。前述の通り、弱みを見せることになるからだ。

多分、弱音を吐かないのは、弱音がないからではなく、弱音を吐くことが嫌だから、最初から存在しないかのように思い込んでいるのだろう。

定期的に、上記のような分析を自分でして、なんとなくわかった気でいる。そして、外に出すことはない。正確に言えば、なかった。

今まで、信じられる人間がいなかった。というか、信じようとしてこなかった。他人は他人、自分は自分。分かり合えるはずがない。そう思っていたし、今でもそう思っている。

最近、noteに多少ながら文章を書くようになってから、書くことに対するハードルが下がった。こうやってパーソナルな思ったことを外に出しているのは、僕の中ではかなりの変化だ。これが実際の生活に反映されるかはまだわからないけど、ちょっと、人のことをもっとわかりたいと思うようになっている自分がいる。

誰かを信じることができるようになるんだろうか。今まで誰も信じようとしてこなかった30の男が。

唐揚げは美味しかった。ビールも美味しい。それは多分、信じられる。まずは自分の感覚を信じるところから始めよう。多分その方が、楽しいような気がする。

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