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相手に心地よくなってもらおうとしない
こんな場面はないだろうか。
誰かの家に行く。家主がお茶を出してくれる。
「今、お茶を淹れますね」
自分はいらない。お腹はジャボジャボだ。さっき道端でジュースを飲んだ。
「いえいえ、結構です。お気遣いなく」
家主は「そんなそんな」とか言いながらお茶を淹れてくれる。日本には遠慮という文化があるし、「お気遣いなく」という言葉を人はまともに受け取らない。
「普通は、人が来たらお茶を出す」とか「あの家はおもてなしがなかったとか言われたら嫌だ」とか、そんな気持ちもあるかもしれない。
お茶が目の前に来たら、今度は自分は飲まなくてはいけないと感じる。だって、自分のためにお茶を淹れてくれたんだから。
お腹はジャボジャボだけど、飲む。早く飲みすぎてはダメ。だっておかわりが来てしまったら困るから。だから帰り際にさっと飲んで、「ごちそうさまでした」と言って帰る。
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私はこのような2人の行動を、「境界線(バウンダリー)を超える」と呼んでいる。
人と人との間にある境界線(バウンダリー)。それを超えるというのは、シンプルに言うと相手の気持ちをコントロールすること。
ネットにわかりやすい説明が載ってた。
お茶を出すことすら、バウンダリーを超える行為なの?と思うかもしれない。
でも、お茶を出す=「お客さんに心地よくなってもらいたい」という、相手の気持ちをコントロールすることなのだ。(お客さんからの要望ではなく、「自分のやりかたで」というのがポイント)
お茶を飲む=「家主に『お茶を出して良かった』と思ってもらいたい」というコントロール。自分の体(お腹がジャブジャブ)を無視した行為とも言える。
こんなことって、たくさんある。
相手に喜んでもらいたくてやってあげることって、たくさんある。実際にされて嬉しい出来事だってたくさんある。だからこそ「喜んでほしくて」は加速する。
お茶を出すくらいであれば可愛いもんかもしれない。「良かれと思って」誰かの部屋を勝手に掃除したり、「喜んでほしくて」相手の家にサプライズで登場したり。
「あなたのためを思って」と誰かの進路や人生に口出ししたり。お金を管理したり。行動を管理したり。
これらは、「お茶をお出ししますね」と全てつながっている。全部、相手の気持ちをコントロールすること。「喜んでほしい」はコントロール。
![](https://assets.st-note.com/img/1674956652126-pXAiTJN9LP.jpg?width=800)
ただ、コントロールが悪いと言っているわけではない。コントロールだって知っているだけでいい。
日本は思いやりの文化があって、「おもてなし」と言えば世界から喜ばれて、親からも先生からも「人のことを考えて行動しましょう」と教えられて私たちは生きている。
「境界線を超えることが普通」の文化で生きている。
だからこそ、「超えている」と知っているだけで十分。そして人間関係に苦しくなった時に、「境界線を超えない世界は、どんなものだろう?」と考えるきっかけになればいい。
そんな思いで、書いている。
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バオバブやってるよ。
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