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【エッセイ・ほろほろ日和6】とびら① ~闇の中で(カウンセリングルームにて)~

 「人生で起こることに偶然なんてないのよ。すべては必然なの」

 友人は言った。振り返って見ると、最悪だと感じていた状況も後からやって来る幸せな出会いへの伏線だったと思えることがある。あの辛い日々があったからこそ、今の私がいる… みたいな。
 もし人生が、巧みな脚本で制作された美しいドラマだとしたら…
 そして、出会いも別れもすべて必然なのだとしたら…
 おそろしく楽天的になって

「この哀しみも、きっと良い方向へ流れて行くためのステップなのだ!」

 なんて言えるようになるのかな。バカボンのパパみたいに。
 生きるってことは結構しんどいけれど、神様は時々びっくりするようなプレゼントを用意していてくれたりするから、捨てたもんじゃないなと思う。そう、幸せも不幸せも偶然に転がって来るものではないのかも。完璧なタイミングで、来るべくしてやって来るんだ… きっと。

 私が、今よりずっとずっと若かった頃のこと。何の前触れもなく、息をすることさえ苦痛になった。心も身体も鉛のように重い。無理をして歌の仕事は続けたけれど、ステージの上で楽しそうな振りをして歌ったり踊ったりしている自分が、醜い嘘つき女に思えてたまらない気持ちになっていた。
 夢の中で「お前の正体を見せろ!」と誰かが追いかけてくる。闇に呑み込まれて、死に物狂いで出口を探す。唸されて何度も目が覚めた。

「誰にも頼ってはいけない。強くならなければ」
 子供の頃からずっと自分に言い聞かせてきた。だが焦れば焦るほどズブズブと暗い方へ沈んで行く。これ以上どう頑張ればいいというのだろう。
「シアワセニナリタイ…」誰かが心の奥で呟いている。

 この状態は数ヶ月も続き、自分でも危ないなと思い始めていた時に、ふとピアニストのWさんの顔を思い出した。当時、始めたばかりの自主企画のコンサートに快く出演して下さっていたWさんは、精神世界にも造詣が深い人だった。側にいて声を聞いているだけでも気持ちが安らいで来る。彼と話がしたい。私は夢中でWさんの家に電話をかけた。

「もしもし」
 受話器の向うから聞こえてくる声は、このうえなく優しかった。
「ねぇ、Wさん助けて…」
 そう言って私は泣いた。人前で泣いたのも、助けを乞うたのもこの時が初めてだった。長い間溜め込んでいたものが一気に噴き出して来た。
「そうか、それは辛いね…」
 泣きじゃくりながら取りとめもないことを喋り続ける私を、Wさんは傍らで寄り添うように受け止めてくれていた。そうして何時間かが過ぎた頃、静かにWさんは言った。

「僕の友人を紹介するから一度会ってみない? きっと君の力になってくれると思うよ」

 東京の巣鴨に、ダルクという薬物依存症の人たちの自助グループがある。
そこでは、人々が共同生活を送りながらそれぞれの責任で薬物を断ち、自立して生きてゆく日の為に、互いにサポートしあって暮らしている。Wさんは時折、無償でピアノコンサートをひらいたり彼らをバックアップする活動を続けているという。そこに、精神科の医師Kさんがいる。Wさんと同じようにサポートメンバーとして関わり彼らを支えながら、カウンセラーとしても活動をしているらしい。
「会いに行ってごらんよ。もし良かったら」

 約束の日は、どんよりとした曇り空だった。湿った空気が身体にまとわりついて気持ちまで重く沈んで行く。精神科の医者に会いに行くという事実が、足の進みを鈍くする。私は病の淵に立っているんだ。そう思うと自分の弱さが腹立たしかった。
 Kさんの部屋は、古びたマンションの一室にあった。ドアを開けて笑いかけたKさんを見て、一瞬たじろいだ。若い。医者イコール年配の男性と思い込んでいた私は、目の前のKさんのあまりの若さに動揺した。見たところ私と同じか、2~3歳年上の感じだ。その頃の私は30代を迎えたばかり。ひとり身だった。結婚願望が無いわけではない。唐突に同世代の男性を前にすると、妙に肩に力が入り態度がきごちなくなってしまう。
 きれいな目をした人だな。
 独身かしら。
 私のことをどんな風に感じているんだろう…
 余計なことが身体全体を駆け巡り、今にも噴き出しそうで怖かった。部屋に招き入れられた時も、何だかひとり暮らしの男性の住まいを訪ねたような錯覚を起こして混乱した。初対面の男性と二人きり… いたたまれなかった。

「こちらからいろいろ質問しますから、気楽に答えてくださいね」
 居心地悪そうにソファに座る私に向かい、緊張しないようにとの配慮なのか、Kさんは気さくに笑いかけながら面接を始めた。質問は微細なことにまで及んだ。
 生まれてから今に至るまでのこと、そして服用している薬物(風邪薬など)の種類までも聞かれた。Kさんはノートに私の答えを書き込んでいる。
答えているうちに次第に不愉快になってきた。何故、私はこの男に自分のことをここまで明け透けに話さなければならないのだろう。カウンセラーっていったい何をしてくれるの。どうせ何も解りはしないのに。

「では、今度は僕の仕事について少し説明しますね」
 Kさんはアルコール依存や薬物依存症の人たちの現状や、自分自身の役割などを淡々と語った。そして彼らと共に生きるために、精神科医を辞めダルクの活動に専念し始めたことを話した。

「あなたにとって僕が最適な人間かどうかは解りませんが、こういった自分を見つめる作業というのは、ひとりでは苦しいものです。僕もお手伝いしますので、もし良かったら少しここに通ってみませんか」 

 Kさんは率直で優しかった。さっきまでの苛立ちが消えていた。
ここ以外に行くところはない。来るべくして来たのだと信じたかった。

 今になって思えば、この時すべてのお膳立ては整えられていた。とびらは開かれ、闇の中に細く光が射しはじめていた。


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