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【エッセイ・ほろほろ日和9】イルクーツクに眠る人

 ロシア連邦イルクーツク州「第7収容所第1小病院」。

私の祖父は、終戦の年(昭和20年)の暮れ、その強制収容所で亡くなった。

 厚生労働省に、旧ソ連政府より提供された「抑留中死亡者名簿」には、344名の名前と埋葬場所の地図が記されていたそうだ。

 遺骨の収容が始まったのが、平成14年の夏。

 名簿や日本政府の保管資料を照合した結果、祖父の長男である私の父の元に連絡が届いたのが、平成25年の春。

 DNA鑑定用の検体が採取できた287柱のご遺骨の中に、祖父と思われる人の遺骨もあるとのことで、父は鑑定を希望した。

 祖父は、集団埋葬されていたのだけれど、DNA鑑定の結果、該当の遺骨は間違いなく、私の父と親子関係があると確認された。

 遺骨収容は、北方でも南方でも、亡くなった方を出来るだけ遺族の元に帰そうと、今も地道な活動が続けられている。

気の遠くなるような仕事。
本当に頭が下がる。
戦争は、まだ終わっていない。

そして、平成26年2月。

 雪が降りしきる中を、厚生労働省の担当者が二人、祖父の遺骨を我が家に届けて下さった。お悔やみの美しい花束と共に。省庁はいろいろとやり玉にあがることも多いけれど、戦没者遺族に寄り添うような仕事を、こうして静かに続けている人たちもいるのだと初めて知った。

 約束の時間に、スーツ姿で出迎えた78歳の父。

「ようやく、親父が、戻って来た」

 とそれだけ言って、むせび泣いた。

 終戦の年10歳だった父は、亡き父親の代わりとなり、中学卒業後すぐに働きに出て、三人の弟や妹たちが高校を卒業するまでの学費を全て捻出した。

 苦労に苦労を重ねて生きてきた父の人生を思うと、私はかける言葉がみつからない。

 祖父は、町の文房具屋さんだった。奥さん(私の祖母・故人)とは、ケンカばかりしていたようだけど、とても真面目な人だったそうだ。

 文房具屋のおじさんの当たり前の毎日を、戦争が奪った。そんな普通の人たちの当たり前を、戦争が奪った。理不尽に。
 戦争さえなければと慟哭した人たちは、世界中にどれくらいいるのだろう。たくさんの、たくさんの人たちの奪われた当たり前の日々を、私たちは、けっして、忘れちゃいけない。

 多くの人たちの力を得て、69年振りに家族の元に戻って来た祖父。

おじいちゃん、おかえりなさい。
どうぞ、ゆっくり休んでください。

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