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【エッセイ・ほろほろ日和2】潮騒を聴きながら・昭和52年~平成2年頃

■「この道」を爆走する私 
 同級生たちが高校に進学する頃、私は父親を説得し、県外にある日舞とバレエと声楽が学べる学校に進学しました。親戚宅に居候して通う学校は、野村先生から言われた「この道」そのもの。ここで結果が出せれば、母のことも、惨めな過去も全て帳消しになるような気がして、走り続けました。

 卒業後、「家事と弟の面倒は、女のお前が見るのが当たり前」と父に諭され、一旦は家に戻ります。けれど私は、私を捨てることができませんでした。雑誌に掲載されていた、俳優・勝新太郎さんが開校した「勝アカデミー」のオーディション広告に飛び着き、父に内緒で上京し受験。数週間後に、合格通知を受け取りました。
 数年前、母と罵り合っていた父は、次に娘である私と壮絶な親子喧嘩を繰り広げることになりました。「お前まで、俺を裏切るのか」と怒鳴った父を、今でも忘れる事ができません。
裏切者… 
そうか、私も母も、父にとっては裏切者。そう思い切ると、覚悟が出来ました。「うちは、死んだと思ってあきらめて」と叫び、アルバイトで貯めた貯金100万円を持って家を出ました。

 東京はニューヨークやロンドン、いえ、宇宙よりも遠くて怖い街でした。けれど、闇に灯った微かな光を求めて、私は勇気を奮い立たせなければなりません。新幹線の中で声を押し殺して泣き、もう二度と泣くまいと悲壮な覚悟を決めて最初の一歩を踏み出しました。
 昭和五十四年九月。
 新宿にアパートを借りて、勝アカデミー第二期生としての新生活を始めました。最初に出会った本物の俳優が、天下の勝新太郎です。刺激がないはずがありません。しかも当時、勝先生は「影武者」の撮影を降板し暇になったということで、頻繁に教壇に立ってくれました。18歳の田舎出の小娘にとって、夢のような日々が続きます。

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 勝先生、40代。渋くてカッコイイです。
地方巡業の「座頭市」にも、連れて行っていただきました。

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売られて行く娘「おさわ」

 勝アカデミーでは二年間、芝居やダンスの勉強をしました。卒業公演では勝先生から優秀演技賞もいただき、夢心地のままとある芸能事務所に所属。けれどその事務所は、ある日突然、音も立てずに消滅。東京砂漠にひとりぼっちでたたずむ自分に気づきます。

■バブル! そして時代は昭和から平成へ
 二十一歳になっていた私は、あらゆる劇団を受験しますが片っ端から不合格。その中で、テレビ局・TBSが運営するタレント養成所「緑山塾」だけが合格の通知をくれました。
 
 けれど、塾を卒業しても仕事はおろか芸能事務所に所属することすら叶いません。私は緑山塾で指導をされていた、ボイストレーナーの大本恭敬先生に泣きつきました。
お前、芝居を捨てる勇気があるなら、歌、やってみる?
 もう他に行き場のなかった私は、その一言に覚悟を決めて、大本先生のレッスン室に飛び込みました。

 ところが、大本先生のレッスンはデビュー前の西城秀樹さんが、あまりの厳しさに号泣したという伝説がある恐ろしいレッスン。
 まさかそこまでは… 
 と怯えつつ、いざレッスンが始まると、それは伝説などではまったくなく、想定以上の超絶厳しい鬼の指導でした。三年後、泣き疲れ、微かに残っていたプライドも自信も粉々に崩れ去り、もう広島へ帰ろうと決意したその日…
「お前、銀座、行ってこい。歌と芝居を融合した世界があるぞ」
 と大本先生からのお達しがありました。

 それが、老舗のシャンソン喫茶「銀巴里」との出会いでした。

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 実力派の歌手たちが生演奏で歌うステージに心を奪われた私は、大本先生に告げます。
「先生、私、銀巴里に出ます」
「よし! お前はシャンソン界に嫁にやる! 二度と帰ってくるな!」
「はい!」

 「銀巴里」のオーディションに合格したのは、二十六歳の秋。
 私は、新しい名前「浜田真実」を名乗り歌手デビューを果たしました。

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銀座マ・ヴィにて 浜田真実

 時代はバブルです。何もしなくても、仕事は次々にやって来ます。毎晩、どこかのステージに立ちスポットライトの中で歌い続けました。上京して八年。裏切者の私も、ようやく父と弟に顔向けが出来ると意気揚々の日々でした。

 ところがわずか三年後の平成二年。
 歴史ある銀巴里は閉店。私の昭和が終わりました。

■立ち止まり、潮騒を聴きながら
 バブルも、終焉を迎えます。
 その頃から、声を出すことは出来るのに、歌おうとすると喘息の発作や身体の痛みに襲われるようになりました。苦しさの理由も原因もわからず、あまりの苦しさにステージを降り、私はひとり、小笠原諸島の父島に逃亡しました。東京から船で二十七時間以上。日本の裏側、ブラジルに逃げるより遠いと感じました。 

 息苦しい。痛い。辛い毎日。
 けれど私は、小笠原で知り合った人たちと一緒に、星を見て、海を見て、イルカと遊び、潮騒を聴き続けました。家を出て必死で走り続けていた私が、生まれて初めて体験した、宿題のない夏休みでした。

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小笠原の海でイルカと遊ぶ

 私の原風景である瀬戸内のふたつの海とは、さらに表情が異なる三つ目の紺碧の海。

 私は立ち止まり、ひとり静かに潮騒を聴きながら、少しずつ生きる力を取り戻していったのです。



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