見出し画像

映画『Odoriko』&『ヌード・アット・ハート』

※感想など書いてみましたが、こちらの nukisuke さんのツイートが抜群にまとまっているので、こちらのツリーをお読みください。
そのあと、もしよければさらに下へ。



・・・・・・・・

奥谷洋一郎 監督作『Odoriko』『ヌード・アット・ハート』(2020年、2021年)を拝見しました。
ストリッパー(踊り子)の劇場暮らしを取材したドキュメンタリー作品。(1月30、31日の2夜連続上映 於:アンスティチュ・フランセ東京)

ストリップを知る知り合いから「絶対見て!」と言われていたものの、踊り子のドキュメンタリーという特性(プライバシー)上、あまりしょっちゅう上映されるものではなく。
そこに今回の連続上映のうわさが別なストリップ知り合いから届き、やっと見ることが叶いました。

ものすごくいいです。

と書くと、ストリップファンの只のひいき目、と片付けられそうなので、

「映画」として
と付け加える。

『Odoriko』の編集は監督本人&いま話題の『ケイコ 目を澄ませて』も手掛けている大川景子さん。
『ヌード・アット・ハート』は、エリック・ロメール監督作の編集であったMary Stephenさん
(マリー・ステファン/メアリー・スティーブン …仏語と英語で読みが変わる?)
が編集を担当されています。

そして、この2作は同じ素材プール(約30時間?)から作られ、共有するシーンも多くあるにも関わらず、
まったく別の作品として仕上がっている。

映画は編集で作られる、という言葉の意味を実体験できるまたとない機会でもありました。



『Odoriko』

【日本、アメリカ、フランス/2020/日本語/DCP/114 分】
監督、撮影、編集:奥谷洋一郎 助監督:江波戸遊土 音:黄永昌 編集:大川景子
プロデューサー:藤岡朝子、Eric Nyari (Cineric Creative)、奥谷洋一郎
共同プロデューサー:塩原史子

2013年から2017年に全国各地のストリップ劇場で出会った踊り子たち。その身体や身振り、彼女たちが過ごすかけがえのない時間の流れに肉薄する。2021年にフランスのドキュメンタリー映画祭「シネマ・デュ・レエル」でグランプリに次ぐ「スキャム国際賞」と、仏文化省が授与する「文化無形遺産賞」をW受賞。

(上記サイトより)

作品はいわばフレデリック・ワイズマンの形式で、ナレーションなし、補足字幕なし(英語字幕はあり)、劇伴なし。
ワンカットも長めにとられ、踊り子の楽屋話、常連客の様子、従業員、劇場外観、を眺めながら通りすぎる人々、そしてステージ・・・と、「ストリップの風景」が映されていく。

カメラもほとんど固定アングルなため、踊り子が手前に向かって喋りかけるシーンが出るまで「無人カメラかな?」と思ったほど、インタビューはごくごく少なく、ただ劇場の片隅に流れた時間を見る。

この撮影班の存在感はあとの項でも触れるけれど、アフタートークで踊り子さんが証言したのは、初めはもちろん取材に対し警戒したこと。許可を出すまで時間がかかったこと(許可を出さなかった踊り子さんも多かったはず)。
ただ、監督のことは信頼できるようになったし、カメラも「いやな目線」ではなかったと。
結果的に、見られていることを忘れるような存在の仕方だった、という。

それゆえ、劇場の早仕舞いが決まり子供に電話をする姿や、それを聞いて「うちも(子作り)頑張ることにしました」と言う姿(撮られてるよ、いや大丈夫、というやりとりまで)、
引退興行中の踊り子と、辞め時がわからないと話す踊り子、田舎の祖母へ電話をかける新人さん、
2人でごろ寝しながら互いの乳首の感度について話しているところ・・・など、なんだそりゃという無防備なところまで映っている。

なかでもこれは絶対必要だよね、と思ったシーン。
引退興行を子連れで見に来た元踊り子が
「○○ちゃん(のステージ)は綺麗だったけど、場内はムリ・・・ イヤ~あの雰囲気」
「キモかった?」
「キモかった~」
「年々キモくなってるよ」

という、観客への正直な感想。
ここは『Odoriko』『ヌード~』両方の作品に残ってるというのが、また意義深いですね。

ある意味、意図した散漫さをもって、ストリップの風景を淡々と映していくこれは、フレームの中に目を凝らし、聴こえる音を拾う、というまぎれもない映画の体験をもたらしてくれる作品だった。(※)

(※と書いた後に「ユリイカ」2021年12月のフレデリック・ワイズマン特集号、『ボストン市庁舎』の構成に関する大川景子さん含めた鼎談を読みました。うえで、散漫は意図しないよな、おれが構成を読み切れてないだけだな。と思いました。
あと本文に書き忘れましたが、ワイズマン監督作『クレイジーホース・パリ』、重要)



風景、と書いたのは声のボリュームもあって。英語字幕に目をやることが多かった。ただそれは本来、会話が全部聴きとれなくてもよい、という意味なんだろう。
その代わり(?)、電飾看板の接触不良(ジージー)やら、外で聴こえる酔っぱらいの声とか、夕方の町内放送とか、場内のタンバリンさんの音とか、は、別途録音して足したりしているそうだ。
(『ヌード~』のほうは後から見て、共通するシーンもあったというのを差し引いても字幕をほとんど見なかった。ボリュームが上がってるのだろう。後から言われて気づいたけど)

だから、踊り子に肉薄する!というような方向性のドキュメンタリーではなく、

「ストリップの風景」を映した作品なのだと思う。


作品と関係ない話ですが、初日、会場に着いたのが開映15分前。
自分、似た名前の施設(アテネ・フランセ)とごっちゃになってるので
”場所間違えてたらもう間に合わない・・・”と不安だったところ、ロビーにひしめいている顔が劇場で見た人だらけで、「絶対に間違いない」と確信した。
初日のトークゲストは「牧瀬茜」さんと「浅葱アゲハ」さん。どちらも芸歴15年を(優に?)超え、ストリップ界ではベテラン勢となる。
満席の場内。

2日目はもう昨日来たから大丈夫。と着いてみると、昨日の顔ぶれが全然おらず、逆にまた不安だった。
客席。6、7割の埋まりかた。
トークゲストは、編集のMaryさん(映画界ではすごい人)で、つまり踊り子ではない。
ストリップファンって、そういうところあるよな。

※ちなみに初日はストリップ未見のかた1割程度。
2日目は増えて、半分くらいが未見といった感じ。わざわざ挙手をお願いしてしまった。


ただメアリーさんは「ファンの方が見たいのは『Odoriko』のほうかもしれません」とも言っていた。それはステージも多めに映っているなどの理由でだったが、実際『Odoriko』に軍配を上げるひとは多かった? ようだ。

わたしは軍配にまったく異議を感じない というか、2本セットでこそだと思いました。

つづきは『ヌード・アット・ハート』で。


『ヌード・アット・ハート』(Nude at Heart)

【日本、フランス/2021/日本語/DCP/106分】
監督、撮影:奥谷洋一郎 編集:Mary Stephen 録音:黄永昌 音楽:鈴木治行 サウンド・デザイン/ミックス:Pierre Carrasco
プロデューサー:藤岡朝子、Eric Nyari (Cineric Creative)、Annie Ohayon-Dekel、Farid Rezkallah (24images, France)、奥谷洋一郎

「踊り子」と呼ばれるストリップ劇場のダンサーは各地を巡り、楽屋で寝泊まりしながら10日ごとに次の土地へと移動する。舞台の袖で見せる素顔、楽屋での日常、ストリップに託す思い、家族への愛情、すべてが一期一会の風景の一部として記録される。『Odoriko』の国際共同製作版として、ロメール作品の編集も手掛けてきたメアリー・スティーブンが編集。

https://www.institutfrancais.jp/tokyo/agenda/cinema230130/

”『Odoriko』の国際共同製作版”という説明で、ちょっとしたバージョン違いかな?と思っていたら、まったく別の作品となって描き出されているので驚きます。
「ポケモン スカーレット/バイオレット」みたいな比じゃないよ。

まず製作経緯としては、『Odoriko』を完成させるために海外の映画祭に出したところ、入賞。制作費を得て、それからあれこれあれこれ(トークで聞いたけど記憶に残せる教養がない)あって、
国際版としてMaryさんが編集を請け負うことになり、『ヌード・アット・ハート』になったとのこと。
実際すでにフランス・ドイツの(すごい)テレビ局「arte」で放送され、なんかの記録を塗り替えているとか。

(同時に”この業種は女性の性的搾取だ”という批判も出たが
「そういう意見は見ていない人からのもので、映画をご覧になれば彼女たちが”自分の人生を選んだ人たち”であるか、わかるでしょう」とMaryさん)

作業としては、まず監督が4年ほどかけて撮影した220時間に及ぶ素材から
(ちなみに監督は、ドキュメンタリーで220時間は決して多くない、と何度も念押ししていた)
残したい30時間?ほどをまとめてメアリーさんに渡し、そこからはコロナ禍もあり、Maryさんのやり方(監督の意図以上に、映像の”声”を聴くこと)で進めていったそう。

ちなみに『Odoriko』は先に完成し、そのことで自分の作業は自由になった、とMaryさんは語っていた。短縮版や長尺版ではなく、異なる目線で新しい映画を紡ぐことができる。監督が使いたいと渡した素材の前後や、また『Odoriko』に残さなかったものの声も聴く。

それで顕著になったのは、「女性の生き様」というテーマ。
こちらでははっきりと、踊り子「五木麗菜」さんの引退≒生き様が縦軸として敷かれている。
また、撮影班=監督の存在も露わになった。

たとえば『ヌード~』には踊り子の恋愛話や料理のシーンがいくつも入ることになったし、後者で言えばステージ袖の鏡で身体をチェックしていた踊り子さんが振り返り
「わ びっくりした!!」
とカメラ=撮影班に言うシーンがある。
またその両者の結実(?)として、こういうことを撮りたいんです、女の生き様みたいな・・・と踊り子さんに言い、それはあたしじゃないかもね、とダメだしされるところもあるのだった。

『Odoriko』は踊り子を背中から撮った映画、『ヌード・アット・ハート』は正面から撮った映画、と形容されるそうだけど、その”正面”を向け(てもらえ)た相手として、監督が画面内に入ってきたのかもしれない。

(また、日仏文化学院の方は前者は「家(劇場)」、後者は「人」とも)

『ヌード・アット・ハート』は、「フィクションの手法をとりました。フィクショナルに構成しました」とMaryさんが説明してくれたとおり、はっきりと劇映画の様相になっている。
とはいえ、ナレーションや劇伴はこちらにもない。でも、構成が劇映画なのだ。
(近年だと東海テレビの映画『さよならテレビ』とかそうでしたね)

五木麗菜さんという”ストリップの職人”の引退までを縦軸として、
序盤から、ストリップ界の現状(斜陽)や、踊り子の世代交代(昔は親の借金でやらされる、今は望んで入ってくる)といった語りを置き、作品の世界観、
この作品内での「ストリップ」を構築していく。
(山咲みみさんの劇場間移動風景がなんとも、雪国の田舎娘がひとりでがんばっている、みたいに映る)
そのなかで、ある時代の輝きを持った踊り子がひとりこの世界を去る・・・というストーリー。

オープニングの音楽も(これは権利関係で元のステージ曲を使えなかったということだが)、いかにもエキゾチックで、海外へのプレゼンテーションを感じる。
なんていうと批判みたいだけど、ここまで見やすく、「見方」のレールを敷いて観客の満足度を保証する作品に仕上げているという、その技法に感動するのだ。おかしいかな?

『Odoriko』ではある程度個別に存在していたシークエンスたちも、話の流れで論理的なつながりを持って、ある意味を帯びた(流れに束ねられた)シーンとして登場したり。

なかでも(これは質疑応答で訊いた)、楽屋でしゃべっているシーンに『Odoriko』では聴こえていなかったステージからの漏れ音が入っていたこと。
話の内容とともに、ここが劇場の中である、という存在感を常に貼り付ける。それははっきりとした演出で、つまり追加したもので、「フィクショナル」にこの世界を描き出すということ。

Maryさんは劇場間の地理的なことも知らないし、日本のストリップ界も知らない、
ゆえに「すべてを一つの劇場のように、またときには、すべての踊り子をひとりのようにも捉えた」という。
これがねえ、すごい。
編集ってそういうものなんですよ。ですねえ。


ひとつ、同じシークエンスながら、使われた部分の違いで2つの映画の差を表してるなと思ったところがあった。
お客さんから大量の「食材」が差し入れされ、それを使って今夜はこれ作るね、と踊り子さんが話しているシーン。

『ヌード~』では調理をする側と、それを受けている大先輩にあたる踊り子の関係性、また料理という行為が持つ意味にフォーカスしているのだけど、
『Odoriko』では、差し入れした客のことをより詳しく語っているシーンがある。

ここがストリップ界ではいいところで、
だって、食材ですよ。
スーパーでふつうに野菜とかカップ麺を買ってきて、差し入れするのである。
実家か?
もちろん、高級なお菓子とかも「勘違い差し入れ」として有名だけれど、それにしてもスーパーの食材の差し入れ。そして、そういうお客さんは、それなりに、いる。あるある。

この味わいを拾い、それも「ストリップの風景」とするのが『Odoriko』
明確なドラマへ向けて収斂させるのが『ヌード・アット・ハート』なのかも・・・と思った。


といったそばからでも、『ヌード~』にだけある「ストリップあるある」もけっこうあって、

・東寺の看板職人のおじさん(現在は故人)の姿
・五木さんがアゲハさんに「お勉強」(踊り子が演目を見せてもらうこと)の感想を伝えるところ
・匠悠那さんの語り
・仙台ロック座の閉館

などは、ストリップ好き垂涎。
まして、閉館した仙台ロック座を訪ねているあの後ろ姿は、恋愛話パートで重要な役割を担っている黒崎優さん
(「薄利多売」にも関わる・・・かなり重要パーソン)だし。

また『Odoriko』に戻れば、
トークで踊り子さんがお二人とも「あそこはウルウルする」と言っていたのは、五木さんの脱いだ衣装をステージの袖で回収する”大先輩”(若尾光さん)の姿。真摯にステージを見つめ、投げられたそれを取り、袖にかける。昔気質の世界。脱いだ衣装を「引く」ことも踊り子の仕事なのだ。
五木さん絡みのシークエンスながら、これは『ヌード~』には残っていない。その背中を見られるのは『Odoriko』だけだった。


・・・・・・・・・・・

ああ。いい映画だった。




まとまらない。



それでいいのだ。


ストリップは今日もつづいている。



毎日、営業しています。



ストリップのことは、ネットではなにもわからない。



あとは劇場で。







おわりです。


いいなと思ったら応援しよう!