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はまぷろのメイキングを大公開!〜第二回本公演 歌劇《リゴレット》〜その1

2018年に公開された記事です。


はまぷろのメイキングを大公開!

はまぷろのオペラはどのように作られているのか……また、どのような苦労や失敗談があったのか。

内部資料を大公開、制作の軌跡がここにある!

メイキング

  • 悲劇の上演の意義と目的

  • 背景

  • 主要な登場人物

  • シーンとアイデア

  • 美術との関連、まとめ


悲劇の上演の意義と目的


ドラマツルグを務めた伊藤薫です。
さて、ドラマツルグとは作品の解釈をおこなう役職で、「この公演を通じて何を伝えたいのか?」を決定します。このプランを元に演出が各部門を動かすわけですから、僕の仕事は初めてのミーティングの以前に、ある程度「終わっている」必要があります。
以下の連載では、《リゴレット》製作に於ける最初期に演出家へ提出した資料を少しずつご覧いただき、団体の記録に代えるものです。

最初に考慮する必要があったのは、団体として初の悲劇である、ということでした。「楽しいよね!」を共有していればある程度行ける(ダメですけど)喜劇に対して、悲劇では「なぜこうなった?」「そこに救いはあるのか?」が公演の鍵になります。
以下が共有した資料の冒頭です。


悲劇の意義

この団体では初の悲劇である。大団円を迎える喜劇と異なり、その終わり方に十分な意味を持たせる必要がある。喜劇ではその喜劇性を各所で呈すれば公演が成り立つが、悲劇ではその悲劇性を前面に押し出せばよいわけではない。物語を押し進めていく、抗いがたい力の存在を常に感じさせなければならない。この力を運命と呼ぶこともできるが、それは各人の生い立ちと人となり、その相互作用によって生み出されるものだと考える。
すなわち、悲劇は理不尽な神のいたずらではなく、ある世界における人々の営みの、必然の帰結なのである。


目的

撮影:伊藤大地

第一に、「なぜジルダは死んだのか」「なぜ復讐は果たされなかったのか」という点を明確に解決する。物語の内部ではモンテローネの呪いが理由としてあげられるが、それではジルダがリゴレットの付属物として死ぬだけであるし、何より公爵が無事であることの説明がつかない。

次に、リゴレットの悪行と陰険さに報いが下ったとも説明されるが、これもジルダに主体性を欠き、生まれを呪うリゴレットに追い討ちがかけられる一方で自由を謳歌する公爵には何事もなく、各々の運命のアンバランスは極まるばかりである。

表面的に作劇を追ってみると、もともと悲劇的な主人公にさらに悲劇的な運命を与えることで、悲劇性が倍加しているのはわかるが、物語の陰湿さも同時に倍加している。また、ここまで述べてきたように、公爵とジルダ、特にジルダには共感しうる人物像を与えることができず、結局どのような人物なのかはっきりしないことも多い。
これを踏まえて復讐が悲劇的な失敗に終わった理由を論じ、もって各人の性格の設定につなげ、その人格を生み出すにいたった世界観について考察していく。

まず、復讐が失敗した理由は「それが誤った行為であったから」「それが正義の復讐ではなかったから」であろう。
復讐という行為自体を、それが復讐であるから誤っていると断じるのは浅薄であるように思われるため、ここでは避ける。つまり、ジルダが公爵への復讐を妨げ、父に彼を許すように懇願したのは、ジルダが盲目的に公爵を愛していたからでも、復讐という言葉自体が虚しいからでもない。「リゴレットが果たそうとした復讐は、彼自身の気付かないところで、矛盾や欺瞞の上に成り立っていた。彼は純粋に、愛する一人娘を傷づけた軽薄な男への正義の鉄槌を、自らを呪ったモンテローネに成りかわって下そうとしたのではない。だからリゴレットの願った『復讐』は果たされることがなく、ジルダは事の成就を妨げて彼女の母のもとへ上った。」と考えたい。
ジルダの死によって、リゴレットは自らの過ちに気付くのである。その過ちとは何だろうか。なぜリゴレットは過ちを犯してしまったのか。

撮影:伊藤大地

この過ちが生まれる経緯についてたどっていくためには、リゴレットが二つの悲劇を抱える登場人物であることに留意する必要がある。

第一の悲劇は現代においては描きにくいことであるが、登場時に既に示されているように、彼が嘲笑の対象として生まれつき、道化として生きていかざるを得なかったことである。
第二の悲劇は劇の本体であり、彼が望みを託していた唯一の存在である娘を傷つけられ、その復讐を試みるもかえって娘を永遠に失うことである。
この二つを密接に結びつけ、第一の悲劇が第二の悲劇を生む過程を丁寧に描いていくことが今回の公演の鍵となる。前述した「過ち」と併せて構造を明確にすれば、まずはリゴレットの生まれと背景が描写され、次いで彼自身の抱える鬱屈が彼を過ちに陥らせ、過ちの結果として訪れる娘の死が、リゴレットと観客の胸に作品世界の悲哀を再確認させる、というような転機をたどる。
リゴレットの陥った過ちとは、端的に言えば、彼が復讐したかった相手は、彼を冷遇した世界そのものであり、娘の名誉を傷つけた公爵への復讐とは、その偽りの発露であった、というものである。

第一の悲劇の中で、リゴレットは世界に受け入れられる場所がなく、理解を得ることも無く、宮廷を軽蔑しながらもその中で生きていくことを余儀なくされている。彼の理想は、今は亡き彼を愛してくれた女性との思い出、その娘であり自らが育てたジルダとの愛情深い交わりの中にあって、汚れなきジルダの存在が彼の精神の均衡を保っている。この箱庭が踏みにじられた時、彼はついに世界に対して反逆し、道化にも公爵を殺すことができることを証明しようとする。しかし、娘の名を借りる欺瞞に満ちた「復讐」は彼の暴発に過ぎず、娘自身がその成就を阻み、第二の悲劇を引き起こす。ここまでの論は枝葉を欠いた概略にすぎないため、詳細はこの後に続く各項の中で述べる。

撮影:伊藤大地


背景


オペラを上演する時、皆が見る唯一の情報源は楽譜です。そこには音楽があり、歌詞がありますが、状況を説明するト書きはほとんどありません。登場人物がどんな世界にいるのか?それぞれどのような環境に属し、どんな常識のもとに育ったのか?解釈のための手掛かりはあまりに少ないように思われます。

しかし、手掛かりの少なさは、かえって作品の自由度を増している、と考えることもできます。どの歌詞に重きを置き、その歌詞をどう解釈するか?なぜ音楽はこのように展開し、あのシーンに続くのか?これまで、美しい音楽・歌唱に触発されて、一つの作品から様々な新演出が誕生してきました。共通するのは、そこで「生きている」登場人物たちを包み込む、確固とした世界観の提示です。

全ての音楽と歌詞が推進力を発揮するためには、全ての音楽と歌詞が意味を持って発されるような世界を構築する必要があります。演奏者たちは「自分は今、どのような世界にいるのか」を見失ってはいけません。美術は観客の前に、その世界を視覚的な情報を以て現出させます。全ての制作は、一つの「背景」があってこそ達成されるのです。

前回の《愛の妙薬》はある難題を押し付けられ、作品の舞台や場面の意味合いを大きく転換する「読み変え演出」を作成しましたが、今回その必要はありませんでした。しかし、だからといって作品の背景が決まっているわけではありません。最初に言った通りト書きは少ないし、作品の当時の世界観を忠実に再現しても、観客に受け入れられがたい場合があります。それでも全ての参加者が、同じ舞台の上に同じ世界を感じて作り上げられるように、次の文章が必要だと考えました。


背景

読み変えとまではいかないが、時代設定は特に設けない。現代に人間を描くにあたって、時を遡行する必要はないからである。特定の国や年代を想定する必要はないが、あえて想像するならば、全ては現代の延長にあるという意味で、未来と考えればよい。

撮影:伊藤大地

リゴレットと宮廷人の間にある断絶が、この物語の最も重要な背景となる。しかし、原作に準拠してリゴレットに何らかの身体的特徴を与えることは好ましくないし、その必要があるとも思わない。とにかく彼は何らかの理由で特別に卑しい人間とされており、宮廷人たちの誰もそれを疑うことはないのである。重要なのは結果として生まれる諸事象、すなわち彼に対する蔑視と不理解、彼の抱く恨みと絶望であって、もともとその理由はあれこれと付け加えるほど意味のあるものではない。

宮廷人たちはリゴレットを劣った人間、自分たちとは異なる存在とみなしていて、その心に思いをはせるものなど一人もいない。彼らにとってそれは前提であって、リゴレットが劣っているからという理由で彼に対して攻撃的になる者もいない。一方のリゴレットには強い自負心があり、愚かな宮廷人を嘲笑っているのだが、彼一人では表立って世界を覆すことなどできるはずもない。リゴレットは道化としての生を強制され、英雄になることも、美を愛することも許されない。

かといって、宮廷人の間に強い連帯が存在するわけではない。彼らは、自らが嘲られれば怒るが、同僚が笑いものにされれば笑う。単に同じ人間であるというだけの群れが社会を作っていて、彼らにとってはその社会が世界のすべてなのである。彼らはマントヴァ公爵に仕え、彼の望みを叶えることで生活している。

撮影:伊藤大地

マントヴァ公爵は単なる宮廷人の一員ではない。リゴレットが疎外されているのとは異なる方法で、彼もまた、ヒエラルキーの外にいる人物である。彼の望みは全て叶えられ、そこに条件はない。宮廷では、全てのものが彼のために存在し、彼に奉仕することを望み、同格の他者はいない。

以上が宮廷の構成であるが、熱量の欠如した人間関係、固定化された身分、放埓な特権階級を説明する、退廃・退嬰の風潮に覆われた社会を想定している。強烈な欲望や憎悪の渦巻く世界ではなく、何か目的を失ったような、場当たり的な人間で埋め尽くされている。彼ら自身が活気を生み出すことはほとんどなく、だからこそ人々に刺激と快楽を与えるリゴレットは重宝されている。

宮廷を一歩出ると、見かけの洗練や懐古的な様式が消えうせて、後には何も残らない。

撮影:伊藤大地

ゆっくりと死に向かう社会を体現した無秩序な空間が広がっている。スパラフチーレやマッダレーナはその中で無目的にその日を暮らす。


主要な登場人物


前回の「背景」では世界観作りをしました。今回の「主要な登場人物」は、極端に言えば舞台上にドン・キホーテを登場させないために行う仕事です。背景があって、そこで育った登場人物がいて、彼らの行動が物語を生み出します。この流れの中で誰か一人が浮いてしまうことがないように、かつキャラクターの間に調和が生まれるように、慎重な考察を重ねていきました。

 「主要な登場人物」としてまとめた3人は登場する場面が多く、それに伴って歌詞も豊富です。たまに異なる場面で整合性を持たせることが困難なこともありますが、それだけ複雑な内面が仕上がりやすく、またその複雑さを描写する機会が多い役でもあります。あまり考え過ぎると輪郭がぼんやりとしてしまうかもしれません。しかし、アリアのイメージを軸として大切にしながら、複数の軸が絡み合う重唱に潜むニュアンスを探っていく作業は、ドラマツルグ職の醍醐味です。

主要な登場人物

①リゴレット

撮影:奥山茂亮

彼は社会から疎外された存在である。彼は回転の速い頭脳を持ち、その機転で注目を集めることができるが、その能力を道化としてしか発揮することができない。強い自負の一方で誰からも理解されず、職務以外では路傍の石のように扱われている。このような生い立ちもあり、鈍重な宮廷人たちを軽蔑しかつ憎悪していて、道化としての毒舌や人を貶めて笑いを誘うことに快楽を感じている。

しかし、彼は気付かないふりをしているが、所詮このような立場は宮廷への寄生にすぎない。宮廷人への風刺は彼のできる唯一の反抗であるが、それも公爵の絶対的な権力の陰に隠れ、宮廷人が彼に無関心だから可能なことである。彼は、彼自身を蔑む社会の仕組みに頼って暮らしている。

宮廷における道化としての一種の自由な立場は、公爵に取り入って利用することで得たものである。彼は公爵を、何の主体性も無い人物として腹の中では嘲笑うが、宮廷の中で公爵だけは笑いの対象とすることがない。公爵の方は単にリゴレットを気に入っているだけで、彼はそんな公爵を取るに足らないと思いながら、彼の持つ自由への、強烈な嫉妬や羨望を押し隠している。

彼を過去に唯一理解し、愛してくれたのがジルダの母である。彼女が死んだあと、彼はジルダを育てることで孤独から逃れてきた。ジルダは彼にとってその母の写し身であり、彼の理想とする全てを備えた娘に育った。すなわち、他者への敏感な理解、憐み、優しさであり、疑うことを知らない心である。ジルダを育てている家は彼にとって箱庭のようなものであり、彼が憎む世界から唯一逃れられる場所だった。

公爵の手がジルダにまで及んだことは、彼の箱庭の終焉を意味した。彼はついに決意する。それは、表面上は娘の名誉のための戦いだったかもしれない。しかし、本当に望んでいたのは世界の全てをひっくり返すこと、すなわち道化である自分が最高権力者の命を奪うことである。ジルダが止めても、彼は聞く耳を持たない。むしろ、彼女が蔑むべき公爵をかばうことを、彼は許せない。彼は運命に従って道化として生き続けるのではなく、娘のために立ち上がった復讐者として、自由な英雄となることを渇望する。

復讐を遂げたと信じ込んだ彼は、ついに自分の大きさを感じて酔う。しかし、殺されたのは彼の娘であった。公爵を許すように懇願し、母と共に彼のために祈ると告げながらジルダは死んでいく。一人取り残されたリゴレットは、己の抱えてしまった歪みのために娘が犠牲となって死んでいったことを悟り、慟哭する。

②マントヴァ公爵

撮影:奥山茂亮

彼が単純な悪役になってしまえば、劇は成り立たない。彼がなぜ刺客の手にかかるべき人物ではないのかについて、説明を与えなければならない。また、彼とリゴレットの関係性、彼とジルダの関係性についても整理することで、このオペラはリゴレットという性格俳優の独り舞台以上のものになるだろう。

この世界の何からも自由である彼だが、彼には何の責も無く、彼は彼なりにこの世界の悲哀に囚われていることを強調しておく必要がある。彼は望むもの全てを手に入れられる人生を送ってきた。しかし、彼自身は何を欲しているのか明らかではない。奔放な女性遍歴にしても、その対象は常に移り変わり、彼は永遠に快楽を追い続けている。彼は第1幕で自らの移り気を歌うが、同時に第3幕では女性の気まぐれを歌う。この二つは裏表の関係にあり、彼は彼自身の属する世界の中に真に心をとらえるものを見出しておらず、また彼の周囲にもそれを教えてくれるものはいないのである。

リゴレットから見れば、彼は自分を疎外する宮廷の象徴である。しかし、彼から見ればリゴレットも宮廷人も大して違いはなく、全ての奉仕を当然と思っている。これは一つの美点とも言え、全ては彼の前に平等なのである。自分以外のすべてに対する精神的な優越、という点で、リゴレットと彼は一部共通した自己認識を持つ。しかし、リゴレットのそれが自負と劣等感の強烈な葛藤の上に成り立っているのに対して、彼はその優越を生まれながらに与えられ、無自覚に享受してきたのである。両者は共にこの自己認識を持て余しているが、彼への憎悪に目が曇ったリゴレットは、それに気づかない。

ジルダは彼のことを公爵と知らない。第2幕の冒頭の独白は真実を含み、ジルダの純粋な思慕は彼の心に初めて触れるものであった。ジルダは彼が戸惑いを抱えてきたことや、彼の方向性を欠いた振る舞いがある種の幼さによることを感じている。しかし、彼はその同情に気づくことができるほどには成熟しておらず、他人を知るすべを持たなかった。終幕まで彼は惑い続け、ジルダの死によって導き手を失うのである。

③ジルダ

撮影:奥山茂亮

彼女は純粋に人を愛することができるように、人に共感することができるように、リゴレットの唯一の希望として、愛情だけを受けながら育ってきた。結果として、彼女はリゴレットの傷ついた心だけではなく、公爵の生まれ持った悲哀にまで気づくことができるのである。リゴレットとは異なり、何の憎しみも受けずに育ったことが、彼女をリゴレットを超えた全く異なる存在にした。この違いが最終幕の悲劇に向けて、大きな意味を持つのである。

リゴレットと彼女の間の愛情は確かなものであるが、彼女の父は彼女を世界から完全に切り離して育てた。リゴレットは、自分の心の底にある怒りや悲しみすら明かそうとせず、名前すら名乗ろうとしない。それは、自身の歪みが世界の醜さを想起させるから、というだけではなく、自身の精神的な醜さを拒絶されることを恐れたリゴレットが、彼女に心を開けなかったからでもあろう。彼女は父の愛情に応えることで父を癒すことはできたが、リゴレットの抱える最大の病である他人への憎悪、それを生み出す世界への憎悪については、どうすることもできなかった。

公爵との出会いは、もちろん若い彼女にとっての初恋であることは間違いない。この恋が、それまでリゴレットからの愛情しか知らなかった彼女にとって、箱庭からの解放を意味していたことも確かである。そこに難しい言葉は必要ない。ただし、それは公爵の容姿に惹かれて内面を読み誤ったから、と考えるべきではないだろう。第2幕で公爵の正体を知っても、第3幕でその裏切りを知ってもなお、彼女は公爵を愛し続ける。それは、公爵の放蕩は彼個人の悪意によるものではなく、この世界そのものが生み出した罪だからである。それは、リゴレットの全てを受け入れて愛した彼女の母のように、彼女にしかできないことであった。

リゴレットは世界への反逆に酔って、そんな自分を偽りながら憎悪する公爵を殺害しようとしていた。公爵は何も知らないまま、自らを形成した世界の代わりとして殺されようとしていた。そこで、彼女は望まない復讐を止め、愛する公爵を救うために、自らが犠牲となった。しかし、最期に彼女が父にまで公爵のことを許すように懇願するのは、父の過ちを正し、彼の心を覆う人々への憎悪を捨ててほしいからである。この世界は、リゴレットにも公爵にも等しく呪いをかけ続け、彼女の父は逃げ場を失って呪いに立ち向かわなければならない。だから彼女は祈り続けるのである。


アイデアとシーン


ここまで長々と書き続けてきましたが、結局問題なのはこの内容をどう伝えるかです。舞台上には役者を筆頭に、セット、小道具、照明と、伝えるための手段がたくさん転がっていますが、バラバラに是々非々で動いても面白くはなりません。これらの協働が必要になる、公演の中でも特に核となるような鮮烈なシーンを提案することで、お客さんに見せたい視覚的なアイデアを制作陣に共有してもらいます。
これは視覚的な舞台づくりへのきっかけとしての提案なので、次の①〜⑥へとピンポイントに絞りました。様々な理由で採用されなかったり実現しなかったものもありますが、その違いもまた制作の過程です。この最初のプランで気にしたことは3つ。
・登場人物に満遍なく触れているか
・時間的に全編をカバーしているか
・観客の予想を裏切り、公演の個性を刻み付けるようなアイデアを提示できるか


シーンとアイデア

①序曲・ジルダの母

撮影:伊藤大地 ※一部加工して使用しております。

かつてリゴレットを愛した女性がいたこと、リゴレットがジルダを彼女の生まれ変わりとして育てたことを、序曲の時間を用いて幻影として示す。ピンスポットの中に、リゴレットがジルダにそっくりな女性といて、笑いながら赤子をあやしている。しかしやがて女性は去り、追いすがるリゴレットに十字架型のペンダントを遺していく。序曲の終了とともに暗転した後、全体の明かりがつくと、そこはマントヴァの宮廷である。

十字架は、ジルダの母の思い出の象徴として用いる。リゴレットが肌身離さず持ち歩き、動揺すると握りしめ、ジルダの母について語る時に彼女に見せる。

②宮廷・仮面

撮影:伊藤大地

宮廷人は活気や方向性に欠ける無秩序な集団である。彼らは彼らの中においても自らの素顔を明かそうとしない。これを物理的に仮面で示すこともできる。舞踏会の個性的な仮面ではなく、能面やアフリカの仮面を思わせるような、硬質で感情を読み取ることができないものである。

ジョヴァンナも誘拐に加担した一味であることを示すために、ジルダとリゴレットの二重唱の後ろでは、仮面をかぶっていてもいいかもしれない。

③ジルダとリゴレット

撮影:伊藤大地

1幕では、リゴレットがジルダの庇護者なのではなく、ジルダがリゴレットに精神の安定をもたらしていることを示す。リゴレットは彼女に依存していて、彼女は父を置いていくことができない。

一方の2幕では、復讐を歌い始めたリゴレットの目にはもうジルダが入っていない。彼は十字架すら投げ捨て、ついに反逆するという残酷な興奮に高ぶっている。彼はジルダを顧みることすらせず、彼女を置いて舞台を去る。

④スパラフチーレとマッダレーナ

撮影:奥山茂亮

彼らは戯画化して描いた方が良いかもしれない。街角で見知らぬ男に対して、無警戒に暗殺業について話を持ちかけるスパラフチーレ。美男を殺すのが惜しくなって無茶な提案をするマッダレーナと、応じてしまう兄。彼らは無思慮で無計画な時代に生きている人々そのものであり、知らないうちに道化となってしまう。

⑤女心の歌

撮影:伊藤大地

彼は女心について歌うが、一方で1幕では自らの放蕩についても歌っている。ここでは単に獲物としての女性を貶めるのではなく、自分を含めた宮廷人の中に蔓延している嘘偽りを無意識に歌う形にする。彼はスパラフチーレの家に、ベールのついたつば広帽など、女物で変装してやってきて、マッダレーナの私物に気づき、扇子をもちながら手鏡に向かって歌う。

⑥ジルダの死

撮影:奥山茂亮

ジルダはスパラフチーレに刺された時に死んでいて、袋の中身は既に死体である。嘆くリゴレットの後ろから、ジルダが別れを告げるために現れる。転がって悶えているのは父の方で、彼女はそれを悲しそうに見下ろしている。追いすがる父に十字架を渡し、彼女は母のもとへ去っていく。


美術との関連、まとめ


前回の「シーンとアイデア」では、いくつかト書きには存在しない場面の構成を試みました。台本に存在しない演技をわざわざ作るのですから、斬新だと評価されるか、余計だと感じられるか、成功する時も失敗する時も派手になります。今回は美術ですが、こちらは演技以上に台本から得られる情報がありません。とにかく放っておけば舞台は無色で平らなままなので、何かを作れば無駄ということはないでしょう。

実は、この「無駄にはならない」というのが難しいところです。必要に応じて何かを作れば、それが「不要だった」ということにはならないでしょう。しかし、さらに「効果的だった」とされるためには、越えなければならない壁があります。ドラマツルグとして提示できる仕事からはどんどん離れてしまうのですが、効果的な美術というものに少しは貢献できるように書きました。

最後の「まとめ」は全部門に向けたメッセージです。これからはそれぞれの部門がそれぞれに活発なアイデアを出してくれますが、どうせなら互いに互いの価値を高め合うようなアイデアが湧く舞台にしたい。そのためのドラマツルグですからね。

美術との関連

撮影:伊藤大地

洗練された退廃をどのように視覚化するのかが肝となる。先の見えない退行の時代、固定化した社会、人々の胸を押しつぶす無感動、といった背景を濃厚に描き出すためには、各部門が協働することが不可欠となる。純粋にこのプランのためだけに提案するならば、以下の二点が挙げられる。

リゴレットとその他の人々の差を、衣服の丈をもって示したい。リゴレットだけが足の動きがはっきりと見えることで、彼を矮小な人物に見せることができる。宮廷においては独自の懐古趣味が見て取れ、例えばトーガ、羽織袴などが参考になるかもしれない。女性陣はドレスやスカート、庶民のスパラフチーレもロングコートなどで足元を隠す。

もう一つは宮廷と宮廷外の違いである。宮廷では先述したとおりの懐古趣味やオリエンタリズム、円柱や障子など特定のモチーフの独特な混合が効果的だろう。また、演技の計画を立てる上で、高低差を作り出し、その頂点に玉座を置くことができるとよい。一方の宮廷外は殺風景で、様式は排除され、崩れた石壁や武骨な柵で構成される。足し算ではなく、どちらもコンセプトを簡潔に表現するような舞台を模索してみたい。

蛍光灯やネオンだったり、ガラスのテーブルであったり、そういった現代的な調度を設けることは、この物語の新鮮さを保障してくれるだろう。また、服装についても、既存のシャツやズボンと丈の長い上衣の組み合わせによって同様の効果が生まれるのではないだろうか。背景の項において未来といった理由には、このような事情も含まれている。


まとめ

撮影:奥山茂亮

もともとは、人間離れして醜い主人公の中の人間らしい心や、彼に容赦なく襲いかかる運命の残酷さを描いていたのかもしれない。しかし、ここで重要なのは、世界から疎外された主人公が抱える葛藤と絶望であり、それは時代を超えて普遍的に通用する物語なのではないだろうか。そこで、社会の階層化、人々の不理解、不透明な未来、知性と感性の衰退など、現代的なテーマを中心に描くことを考えた。観客の心に何かを残すことができる悲劇を作るために、舞台・衣装・演技の各分野が本作品をより深いレベルで検討し、協働できるようなプランを作るべく、さらに改善を加えていきたい。

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