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はまぷろのメイキングを大公開!〜第二回本公演 歌劇《リゴレット》〜その2

2018年に公開された記事です。


はまぷろのメイキングを大公開!

はまぷろのオペラはどのように作られているのか……また、どのような苦労や失敗談があったのか。

内部資料を大公開、制作の軌跡がここにある!

メイキング

  • 制作とドラマツルグの関係性の整理、人物と台詞

  • 世界観

  • 美術の方向性

  • 演出案


制作とドラマツルグの関係性の整理、人物と台詞


《リゴレット》ドラマツルグの伊藤薫です。
「ドラマツルグ2」は最初に配布した資料の一つで、構造がメインだった「ドラマツルグ」と比較してより具体的なトピックを取り扱っています。重複も多いとは思いますが、考察から実践へと比重を移して、実際の制作者の目線を意識した資料です。


制作とドラマツルグの関係性の整理

オペラは歌詞だけ取り出すと意外と短いもので、物語は観客の共通理解と伝統的な解釈のもとに成り立っています。歌詞や音楽を改変する事は不可能ですが、総合芸術であるオペラにおいては、視覚的な表現によってその伝え方を調整し、繊細な文脈を加えていくことができます。大道具は象徴的なシーンを舞台の構図を通して伝えること、衣装は各キャラクターの性格と社会的な立場を表すこと、照明は重要な場面とさらにその中で重要な要素を抽出すること、字幕は訳出すべき言葉を省略せずに伝えること、とそれぞれが全体の表現を後押しすることができます。すなわち、物語の背景となる世界の表現、そこで展開される人間のあり様は、個々の役者や演技部門のみによって達成されるものではありません。オペラではこの傾向は演劇より顕著であり、非常に困難な作業となります。公演を通して我々の物語を積み上げるため、ドラマツルグとして各部門と協働したいと思っています。

人物と台詞

あらすじだけではなく、結局台詞を読まないと登場人物や物語に触れることができないので、ピックアップしました。

リゴレット:世界からの排斥、人間への憎悪、世界への反乱

O uomini! O natura! Vil schellerato mi faceste voi!
人間どもめ!造化の神め!うぬらが俺を卑劣な悪党にしたのだ!
Quest’è un buffone, ed un potente è questo! Ei sta sotto I miei piedi!
こちらは道化師、してこちらは権勢様!それがわしの足下にいる!奴さ!ああ嬉しや!

出典:『オペラ対訳ライブラリー ヴェルディ リゴレット』 訳:小瀬村幸子 出版:音楽之友

マントヴァ公:絶対的な権力、欲望の定まらない行き先、迷い続ける子供

Colei sì pura, al cui modesto sguardo quasi spinto a virtù talor mi credo!
あのように清らかな娘、そのつつましい目差しに、時として徳行に導かれるかに思われるあの娘は!
La donna è mobile qual piuma al vento, muta d’accento e di pensiero.
女は気まぐれ、風に舞う羽のように、言うこと変わり、思いもまた。

出典:『オペラ対訳ライブラリー ヴェルディ リゴレット』 訳:小瀬村幸子 出版:音楽之友

ジルダ:若く純粋な愛情、他者への理解、許しをもたらす声

Caro nome che il mio cor festi plimo palpitar.
慕わしい名よ、私の心を初めてときめかせた名よ。
Perdonate… a noi pure una voce di perdono dal Cielo verrà.
許してさしあげて…そしたらわたしたちにもまた、天からお許しの声が届くことでしょう。

出典:『オペラ対訳ライブラリー ヴェルディ リゴレット』 訳:小瀬村幸子 出版:音楽之友


世界観


各キャラクターと廷臣について、そもそも彼らの舞台上における存在意義を、問いかけと答えの形で設定しました。全てを読んだ時に、今回公演における物語全体の構造が完成するように構成しています。


世界観

オペラはしばしば、大仰な時代物として物語性が軽視されます。さらにリゴレットでは、差別的な表現が含まれることから、問題は複雑になります。作品が元々持っている背景について、その普遍性を抽出することで、現代に通用する物語を目指します。

せむしの道化師(リゴレットとは?)

撮影:奥山茂亮

身体障害者は、中世の宮廷において道化として雇われることがあった。彼らは通常の人間とは異なる存在として、嘲笑を受けながらも、ある程度自由な発言を許される特権をもっていた。リゴレットも宮廷人たちに奇形として蔑まれるが、マントヴァ公の庇護を受け、彼らを侮辱することで笑いを生み出している。リゴレットの側にも明白に、マントヴァ公を初めとする宮廷人たちへの軽蔑と憎悪がある。彼は道化としての特権を行使することで、宮廷人たちを口撃して欲望を満たしているのである。
しかし、リゴレットの独白によって、彼自身がそんな仕事を卑屈で邪悪であると考えていることもわかる。彼は自分が道化として生きなければいけないことを嘆き、それを強制した造物主と人間たちを憎む。ここで彼の思考は、自分のような道化を必要とし、造り出す人々に対する憎悪と嘲笑に戻っていく。嘲笑をまき散らす道化という職業を憎みながら強制され、しかし道化の仕事を通して自らの鬱屈を晴らしている。生まれつきそういう矛盾の中に囚われていることが、リゴレットの最大の悲劇である。
リゴレットは人間と見なされず、宮廷の片隅で孤独に生きてきた。彼が何よりも求めているのは愛情であり、理解されることである。ジルダに話すように、彼の唯一の幸せとはジルダの母に愛された過去であり、今はジルダが彼にとって世界の全てである。彼はジルダに自分の理想を投影して育て、ジルダはそれに応えて愛情深い娘に育った。昔、彼女の母親が彼を理解してくれたように、ジルダと住む家だけが彼の憎む世界から隔絶され、リゴレットが人間的に生きられる唯一の箱庭なのである。
ジルダがさらわれ、箱庭が宮廷人たちの手によって破壊された時、彼の中の均衡が破綻する。世界の中に聖域を失ったリゴレットは、ついに世界そのものに反逆し、自分が単なる「道化」ではないことを示そうとする。彼は娘の復讐と言ってマントヴァ公を殺そうとするが、ジルダが止めても聞く耳を持たない。これは彼自身の、彼を虐げた世界に対する復讐なのである。だからジルダはリゴレットの目に「残酷な喜び」を見るわけである。

宮廷について(世界観)

撮影:奥山茂亮

宮廷人のリゴレットに対する目線はどの演出でも好意的ではないが、その理由には彼の障害と振る舞いとの二つがあり、どちらによるものかは曖昧である。ここでは、宮廷人のあからさまな敵意というよりは、リゴレットを同じ人間と見なさずに無視している、という風に表現したい。彼のような存在が愛人を囲っている、という噂は現象として面白いし、彼が不快なことをすればその愛人を奪うことで仕返しをするが、そこには妬みや勘ぐり、悪意すらない。
この無関心は、何もリゴレットだけに向けられたものではない。チェプラーノを笑っていた合唱が、次の瞬間には彼らを笑わせたリゴレットを笑い、そのまた次にはチェプラーノと共にリゴレットに復讐する計画を練る。彼らは自分がその場で笑わされたり怒らされたり、といったことには反応するが、それ以上の価値判断は行わない。チェプラーノが笑い物にされていた時、宮廷人の誰一人としてチェプラーノを思いやることはなく、リゴレットへの復讐をたくらむ時、誰一人として止めようとする者はいない。
リゴレットを中心に見ると、彼らのような人々の無関心や無理解が、弱者の心をどのように傷づけ捻じ曲げるか、というテーマが現れる。しかし、無関心と無理解、という問題は社会的な立場を超えて世界全体に広がっていくものであり、その被害を受けず疑問も持たずに暮らしている彼らをしっかりと描くことができれば、リゴレットのテーマにも深みがもたらされる。その具体的な内容は、マントヴァ公についての説明、リゴレットの復讐の失敗の理由と「許し」において触れる。
もちろん彼らを集合としてのみ扱うわけではなく、マルッロ、チェプラーノ、ボルサはそれぞれの個性を持つ。しかし、それがこれまで述べてきたものを逸脱してはならない。彼らはみなこの世界で、同じような境遇のもとに育ち、同じような制限を受けながら同じような権利を享受している。

復讐の矛先(マントヴァ公とは?)

撮影:奥山茂亮

マントヴァ公は印象的なアリアが多い一方で、その人格には全くと言っていいほど印象が得られないことが多い。軽薄な遊び人であり、適当で自分勝手な割には、最後まで元気であり何の代償も支払わない。中盤でジルダの身を案ずる独白があるが、最終幕ではその時の人間性の表出はまるでなかったかのように、女心の歌を歌う。一貫性がなく、解釈が難しいところではあるが、このキャラクターの迷いそのものを彼の本質と捉えることができるように思う。
彼は最高権力者であり、この世界の頂点に立っているが、それを獲得するために努力したわけでも、維持するために注意を払っているわけではない。リゴレットと反対に、生まれながらに世界から恩恵を受けているわけである。しかし、世界が彼に全てを与えてくれたわけではない。彼は漁色家であり、自分はどんな女にも縛られないと豪語しているが、一方で女性が自分に向ける恋心も信じてはいない。この二つのアリアの内容は、どちらも彼の不道徳を表してはいるが、他者への理解という観点で言うと、対照的かつ相補的である。
彼は唯一の存在であるので、他者を理解することの価値や、他者に理解されることの喜びをわかっていない。その点では彼は子供であると言っていいかもしれない。そこに揺さぶりを加えるのが、リゴレットの愛を一身に受けて育ったジルダであり、彼は二幕の独白において、本心から彼女の清らかさに戸惑っているのである。だが、失われたと思ったジルダが自分のもとに帰ってきた時、彼は単に欲しいものが手元に戻ってきた喜びでいっぱいになる。彼は結局、おびえたジルダの心を労わらず単純に欲してしまい、結果としてその未熟な振る舞いは彼女を傷つける。
リゴレットはマントヴァ公のこうした一面を理解しようとしなかった。それは、彼があまりに世界によって傷つけられ、その頂点にいるマントヴァ公を軽蔑し、盲目的に憎んでいたからである。リゴレットが彼を殺そうとした時、そこにあったのは「自分を虐げた世界の象徴としてのマントヴァ公」を打ち倒すことであった。ここに、リゴレットの方が陥った「不理解」が現れる。彼の方もいつの間にか、人間としてのマントヴァ公を理解しようとすることをやめてしまったのである。

許し(ジルダとは?)

撮影:奥山茂亮

リゴレットが娘ではなく自らの復讐のため、盲目的にマントヴァ公を対象として選んだ、と考えると、なぜジルダがリゴレットの復讐を妨げたのかが説明できる。リゴレットと異なり、ジルダは外の世界への憎しみとは無縁に育てられた。リゴレットの負の部分をもたず、他人を理解しようとするジルダは、マントヴァ公自身もこの世界が生んだ未熟な子供であり、欠落を抱えていることを知っていた。だから、彼女の父の行為は誤っているし、マントヴァ公は救われるべき人物なのである。
ジルダの悲劇は、リゴレットの抱えた傷へ愛情を持って接してきたように、マントヴァ公の欠損に対しても自分を犠牲にするほどの愛情を与えたことである。もちろん彼女も一人の若い女性であり、暮らしの外にあるもの、初めての恋というものに心を躍らせたであろう。マントヴァ公の裏切りは純粋な彼女を傷つけたであろう。しかし、優しさや共感という面については、彼女はこの物語に登場する他の誰よりも成熟し、恵まれた人物だったのである。
彼女は父の復讐を止めるだけではなく、父にマントヴァ公を「許す」ように懇願している。ただ殺さないだけではなく、なぜ許しが必要なのだろうか。それは、この「許し」がマントヴァ公のためだけではなく、リゴレットのためにこそ必要だからである。リゴレットは、彼が人間と見なされなかったことの裏返しのように、全ての人々を軽蔑することで孤独を再生産していた。世界を憎んで、いつの間にか「人」を憎むようになってしまったリゴレットを、その憎しみから解放するのが「許し」なのである。
呪いのテーマの正体はこのあたりにあると思う。まずは、誰からも理解されず、人間として生きることを許されない呪い。そして、世界に絶望するあまりに、人々への憎しみに囚われてしまうという呪い。そして、この呪いは異なる形で、マントヴァ公や宮廷人にも降りかかっている。このような「荒廃した世界」という呪いから唯一自由であったジルダだけが、呪いに抗うための「許し」という道を示して死ぬ。しかし、彼女が死ななければならなかったことすらもまた、この世界の呪いの一つと言える。リゴレットは「呪い」について悟った上で、これからも世界に抗っていかなければならないのである。


美術の方向性


美術の方向性について書くのはそれをチーム内で共有して欲しいからではありますが、そもそも文字で長々と伝えるより、シーンを一枚の絵で表してしまった方が効果的な場合がある、という事実のせいでもあります。ですから、この文章も文章通りの美術を頼むというよりは、描いた絵のどこがこれまで書いたこととリンクしているのか、を表しています。僕に美術のセンスはないので、この絵がそのまま再現されることは望んでいません。しかし、絵の形で伝えたことで、文章だけの時より、美術の方々の中には「次の絵」が形成されやすいのではないか、と思うのです。

ドラマツルグとしての提案は以下のとおりである。原作の時代を再現することは制約が多く、予算からしても難しい。無関心・無理解が人々の心を歪めていく、というテーマ自体はどのような時代でも成り立つと思う。今回は、現代の延長線上に表れる世界として、近未来をイメージすることを提案したい。社会の階層化が進み、科学は衰退の局面に入り、人口は減少に転じている、というような背景のもと、既存のモチーフを組み合わせた懐古趣味に浸る富裕層と、ネオンの光る寂れた路地に暮らす下層階級、といった差を生み出すことを考えている。

①大道具

大きな構造としては、宮廷内にリゴレットのいる最下層、宮廷人のいる場所、マントヴァ公の玉座と高低差をつけることが必須である。その後も、他の登場人物から見えない陰で歌う場面は多い。リゴレットの家・塀の外、スパラフチーレの家の中・ドアの前と、高さ別にエリアを設定することは有用であると思われる。

宮廷:赤

マントヴァ公のパーソナルカラーである赤を中心とする。壁のシルエットには斜線や曲線を多用し、異様な印象を与える。懐古趣味とオリエンタリズムの混合によって、古風だが浮世離れした調度を考案していただきたい。個人的には、コリント式の円柱と変形した屏風または障子をイメージした。近未来として描くならば、高層階であるような背景も効果的かもしれない。

リゴレットの家:白

主に直線的、モダンで落ち着いた雰囲気である。家具についても平行・垂直を基本としたシンプルなものを用いる。難しいことだが、ガラスのテーブルなど、用いることができればちょうどいいかと思う。閉じ込められている、といった印象は与えたくない。主に庭先を用いて、穏やかなランプやツタの這う柵などで軟らかい印象を与えたい。

スパラフチーレの家:灰

周囲の建物はゆっくりと崩壊を始めている、寂れた路地をイメージしている。一階にはネオンの鈍い明かりに照らされた酒場があり、住居はその上にある。路地にはそっけない街灯やゴミ箱が乱雑に置かれている。

②衣装

男声合唱の基本方針として、ドレスシャツにスラックスといったシンプルな衣装の上に、足もとまで伸びる丈の長いガウンやトーガを併せ、なるべく足元が見えないように隠す。これに対して、リゴレットは常に足の輪郭が見え、両者の差を視覚的に明確にしたい。マントヴァ公についても、ジルダとの二重唱などでは上衣を脱いで現れ、貧しい学生に見えるようにする。

マントヴァ公:赤

素のマントヴァ公として、ドレスシャツとスラックスの学生らしい出で立ちを考え、その上に彼の権威と放蕩を示す、派手な赤の着物を着せる。ただし、宮廷人たちとの違いとして袖をなくすことで、重厚さだけではなく、若さや幼さのようなものも感じられるようにしたい。

リゴレット:青・黒

腰までの丈のジャケット、青と黒という暗い色であるが、道化として市松模様や大きな襟などの派手なガラおよびデザインである。中には黒で統一したピッタリとした上下を着ており、これについてはワイシャツより、タートルネックなどを用いてもいいかもしれない。

ジルダ:白

ワンピースまたは極シンプルなドレス。足し算よりは引き算で考えて、素朴で愛に満ちた若い娘として描きたい。


演出案


実際に舞台で何を起こせるか、というのは解釈の仕事から見れば終着点ですが、かえって出発点となることもあります。この解釈を見せるためにこの絵を作ろう、というのが自然な流れですが、過去の上演を見て、「このシーンをこういう風にするのは前例がないかも」と思いついたところから、ではどうしたらそういう絵になるだろう?と解釈に遡ることもあります。最終的に矛盾なく残ったのがこの演出案です。
・→基本的なプラン(土台として)
○→具体的な提案(絵として)


第一幕

第2曲
・リゴレットの挙動
リゴレットはからかっている時は相手と対等のように振る舞い、それが終わった瞬間目に見えてへりくだる。前者が本心に近く、後者が建前。メリハリをつける。
・廷臣たちの離合集散
さっきまで笑っていた相手と、次のシーンでは仲間になる。節操がなく、落ち着かない様子で。手が震えていたり、頭の動きが忙しなかったり。
○モンテローネと廷臣たち
リゴレットがわざとモンテローネの憎しみを掻き立てたあと、モンテローネは廷臣たちの間を廻りながら呪いの歌を歌うが、彼らは通常演出のように恐れることはなく、どちらかと言えばきょとんとしている。リゴレット以外に、モンテローネの苦しみは伝わらないからである。
○リゴレットへの呪い

撮影:伊藤大地 ※一部加工して使用しております。

モンテローネがリゴレットを呪い、リゴレットがそれに応えて曲調が変わる。この瞬間、一気に照明が変化して、舞台は現実世界からリゴレットの心象風景へと変化する。中央にはモンテローネと彼に詰め寄られるリゴレットがいて、それを取り囲む廷臣たちの顔は良く見えない。顔のない彼らの歌はモンテローネに向けられたものであるが、不意にリゴレットはその歌を、自分に向けられる敵意の集積のように感じる。彼は四方を囲まれ、逃げることができない。

第3曲
・リゴレットとスパラフチーレ

撮影:奥山茂亮

曲に釣り合った奇妙なユーモアが必要。スパラフチーレは稼業に不釣り合いに饒舌な男で、どちらかと言えば人目をはばかっているのはリゴレットの方である。そんなスパラフチーレの人懐こさに、リゴレットは途中から(e quanto…から)興味を持って話し始める。

第4曲
・ジルダとリゴレット
リゴレットがジルダを保護しているのではなく、ジルダがリゴレットの母親であるかのように。リゴレットの弱さを2種類に分け、コントラストをつけて表現する。すなわち、ジルダにしか見せない彼の心の傷と、ジルダを失うことへの暴力的な恐怖である。場を動かしているのがジルダに見えればよい。

第5曲
・ジルダの若さ
リゴレットの前よりも娘らしさを出す。ジョヴァンナへの甘えと考えてもいいかもしれない。
○ジョヴァンナ
彼女の挙動は、暗い場面ということもあって一般的に見えづらい。今回、リゴレット父子の期待とは裏腹に、彼女を金次第で公爵どころか廷臣たちも通す人物としてしまえば、むしろ物語の背景にある絶望感が強くなると思われる。例えば、ジルダとリゴレットの二重唱の後ろでは、まったく共感を示さず無表情に佇んでいる。ジルダとの直接の会話では優しげだが、その後ボルサに金をもらうと、特別な思い入れもなく消えてしまう。こうした無秩序・無関心を宮廷外で示せるキャラクターは少ないため、しっかりと見せることで世界観を表現できる。
・公爵

撮影:奥山茂亮

全ての女性を適当にあしらうドンファンではなく、全ての女性に本気で愛をささやく病的な人物として描きたい。ここでは裏表なく、一人の愛を求める若者、学生Gualtier Maldeを公爵の一面として振る舞えばよいのではないだろうか。

第6曲

第7曲
○リゴレットを騙す廷臣たち
かなり無理のある騙し方であるが、リゴレットと彼らの身分差を表すことで、その強引さを説明したい。あえてリゴレットを舞台の中央に置き、目を合わせられずに縮こまっている彼の周りに、芝居がかった言動をするボルサ達を配置する。鍵の受け渡し、覆面、梯子を持たせることなど、全て乱暴におこない、一つ一つ騙すのではなく、状況を飲み込めないうちにジルダがさらわれるように表現する。Zitti, zittiでは時間の経過を考えずに歌ってもいいかもしれない。


第二幕

第8曲

○公爵の変化

いずれの歌も本気なのだが、ジルダの境遇を考えれば、廷臣たちの行動への咎めがないのはおかしい。それこそが公爵の本質ではないか。廷臣の前だからと言って、感情を抑えることはない。自分の欲が満たされたか否か、それだけが重要である。

撮影:伊藤大地

○ジルダの登場

この場面で、公爵の背後からジルダを連れてこさせることもできる。ジルダは公爵の背後で、彼のジルダへの想いの歌を聞く。ジルダは廷臣らの仕打ちを訴えようとするのだが、公爵は聞く耳を持たず、彼らの前でジルダに抱きついて退場していく。ここでジルダが公爵の未成熟な心を知る、と考えることができる。

第9曲

○リゴレットを見る廷臣たち

撮影:奥山茂亮

ことさらに邪悪に見せる必要はない。憔悴したリゴレットの様子を、純粋に面白がっている。ジルダが彼の娘だとわかってからも、その意外な真実に興奮して囁き合うものの、ショックを受けたりはしない。アリアに入ってから、廷臣たちが再び歌いだすまでが長い。一人ずつ演技をつけていくより、照明ごと変えて、廷臣たちを記号として扱う方が簡単だろう。リゴレットを阻む2回以外は、持ち場で無機的に佇んでいていいかもしれない。絵も想像しやすい。

第10曲

○ジルダの告白

ジルダの回想では、リゴレットの表情は見えないようにする。モンテローネ登場前の二重唱は、二人の心が通う最後のシーンと考える。モンテローネ登場前のこのシーンに美のピークを持ってくる。ただしこのシーンですでに、リゴレットの中には、一人娘を思う父親の慈愛と共に、世界を恨む個人の復讐心が同居していることに注意すべきである。前者の美しさの中に、後者の不穏な影が潜んでいる。リゴレットの腕の中で悲しむジルダに対して、その父は娘の向こうを見つめている。

○リゴレットの復讐

モンテローネの登場によって、呪いや復讐心が舞台の前面に現れてくる。廷臣の退場時点では現実的だった世界が、親子の幻想的な美しさへ移行し、しかしその中から抑圧されていた危険な感情が広がって舞台を覆う、この様子を視覚的にも表現しなければならない。人物だけではなく、照明も用いて、一つ一つ絵を完成させる。リゴレットは最早娘のためではなく、自身のために行動している。彼女の制止を振り払いながら、熱に浮かされたように舞台の前方に出る。幕の最後にはジルダを置いて興奮した様子で退場し、くずおれた彼女だけが舞台に残る。

撮影:伊藤大地


第三幕

第11曲

・リゴレットとジルダ

本当にジルダを思っていれば、公爵の乱行を見せつけたりはしない。リゴレットは娘に冷たい言葉を投げつける。

○女は気まぐれ

撮影:奥山茂亮

初めの「あれかこれか」との対置となるように、投げやりな陽気の中に、空虚さをしのばせる。マッダレーナのものと思われる女物の帽子や手鏡を用いて、単に男が女の気まぐれを嘆いているだけではないことを示す。その様子をジルダだけはのぞき見ていて、リゴレットは見ていない。

第12曲

・マッダレーナと公爵

撮影:奥山茂亮

マッダレーナが公爵をあしらうが、最終的に恋に落ちるのはマッダレーナである。二人が最後まで駆け引きをするのではなく、次第に公爵のある種の純粋さが押し出されていく。

・ジルダとリゴレット

モンテローネにしたように、リゴレットはジルダの復讐心をあおろうとする。しかし、リゴレットの同情に乗せた毒は、ジルダの心を父と同じ憎しみに染めることはできない。ジルダの心の傷と、リゴレットが娘に求めていることの違いを明確にする。

第13曲

・スパラフチーレとマッダレーナ

撮影:奥山茂亮

二人の仲の良いやりとりが、話している内容の物騒さにもかかわらず、笑いを誘うように作る。思いつきでねだるマッダレーナと、妙なところで律儀なスパラフチーレの掛け合いである。深刻な幕の途中で訪れる馬鹿騒ぎが、後になって対照的に悲劇を際立たせる。曲調と同じく、スパラフチーレが身代わりを提案するところから雰囲気が一変する。

○雷鳴、室内と室外

スパラフチーレが身代わりを提案し、マッダレーナはうまくいくわけがない、と答える。ここからの場面で雷鳴におびえているのは室内の二人であり、ジルダは毅然と立っている。彼らがおびえているのは雷鳴だけではない。彼らは罪のない人を殺すかもしれない、という自分たちの提案自体に興奮し、おびえている。雷光の時間的なコントラストと、室内・室外のコントラストを両立させる。

第14曲

・リゴレットと死体袋

陶酔するリゴレット。自分を英雄のように思い、復讐を果たしたことを誇る。ジルダを死体袋につめないことで、これを手荒く扱うことができる。

○フィナーレ

撮影:奥山茂亮

ジルダは既に死んでいて、彼女はリゴレットの背後から登場する。注意すべきなのは、彼女を霊として見せることである。青白い月明かり、静かな足取り、清らかな表情など、工夫すべき個所は沢山ある。リゴレットは多くの時間を死体に向かって喋るが、最後には頬に去っていくジルダのぬくもりを感じる。ジルダが暗闇に消えると、リゴレットはまた一人取り残される。




ドラマツルグのプランも演出案も、演出を通して演者と奏者に届き、最後にはお客さんに届きます。ですから、まずは演者と奏者に受け入れられる提案でなければなりません。彼らのほとんどは音楽家であり、常に舞台やピットで音楽を感じながら、次の音楽や演技を作っていきます。どんなに斬新なプランでも、その流れを妨げてはお客さんまで届きません。音楽の流れを助けること、これが舞台を生きたものにし、お客さんの体験を豊かにしてくれると僕は信じています。

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