無重力ホットケーキ


ホットケーキミックスをワサッ…とこぼした。23歳にもなって、台所の床に。

ビニール袋からボウルに移し替えるだけなのに、なぜ人は照準を誤るのだろう。
そう自問自答しながら、フォークの背中でバナナを潰していたら、見事にフォークを曲げてしまった。

おや、今日はダメな日かもしれないぞ。


だいたい、母に誘われて昼ごはんのニョッキを作っているときだって、小麦粉はこぼすし芋は落とすし熱湯は跳ねるしで、台所をさんざんな目に遭わせたのだ。

今日はやめときゃよかったなぁ、と思いつつも、フライパンに生地を流しこむ。牛乳100、ミックス150、バナナは買いすぎたので3本。

やや分厚いことに不安をおぼえつつ、中火にかけて蓋をする。
あとは待つのみと言いたいがそこは料理初心者。まだかまだかと蓋を開けては閉める。


さて、このフライ返し3つぶんの大きさに広げてしまったホットケーキ。
誰がひっくり返すというのか。

あんた頑張り、と母が私にフライ返しを握らせる。いや無理やって、今日あかん日やもん。ほら、フライ返しで浮かそうとしたとこが微妙に崩れてきたもん。フライパンのへりに当ててグシャアってなる未来が見えてるもん。

母と無言で見つめあい、無言で押しつけあう。
どちらがやってもこのサイズじゃ大惨事になることは火を見るよりも明らかだ。


「おお、父よ」

リビングでこたつに入りながらパソコンをいじっていた父が、我々の方をちらりと見る。

「その腕前をお貸しいただけんでしょうか」

「ええよ、ひっくり返すんか?」


父はお好み焼きチェーン店の風月でバイトしていた経歴を持つ、我が家のお好み焼き頭領だ。
フライパンを返す鮮やかな手つき。半回転して着地するお好み焼き。
父が台所に立つそのひと時、あの空間は無重力になる。


いや、待てよ。

今日は私のアンラッキーデーである。寝坊したから見てはいないけど、朝の星座占いではきっと「台所に近づいちゃダメ!不幸になるわ!」と言われていたであろう。

そしていつものお好み焼きと違い、今日のはバナナを規定量より1本増やしたズッシリホットケーキだ。

いくら歴戦の父であろうと、ひょっとするとひょっとするかもしれない。


「いや…やっぱフライ返しにせぇへん?」
「失敗して生地が台所に散ったら泣くからね」

限りなく弱気な私と、娘に台所を荒らされて心まで荒んだ母を制し、父は「まあまあ」とフライパンを揺する。

「行くで、見とき」

頼む、お願いや、と神様に祈った瞬間。
バナナホットケーキは軽やかに宙を舞った。



私が高校のころに移ったから、もう6年、7年くらい勤めただろうか。
父は、この3月で今の会社を退職することが決まっている。

先月70歳になった父は、引き継ぎ業務に追われながらも、転職サイトで次の仕事場を探している最中だ。

ボケ防止とか暇だとか言ってくれてはいるが、春から社会人になる私ひとりに家計を背負わせないためだろう。

洗車とか、病院の清掃とか、発掘作業とか、見つけた仕事をたまに報告してくれる。
発掘作業なら夫婦で行っても楽しそうだねと、そんな話をまじえながら。



クラスで後ろから何番目だった小5のころ。
両親の身長を超えたくないと必死に神様に祈った。これ以上はもういいです、って。

そうしたら154センチでピタッと止まってしまった。止めるのが早すぎた。あと2センチは必要だった。ロングスカートがウエディングドレスの裾になってしまう。見切りの甘さこそが私である。


追い抜きたくないと思っていても、時の流れは温泉の水流マッサージくらい強くわたしたちの背中を押すものだ。

父を追い抜いて、先導者のいない道を歩き出さなきゃいけない。

浅い潮が足首を濡らすように、大人になることへの不安が迫る。


ずっと手を引いてもらって歩いてきたのに。

自分が父と母の手を引いて歩くだなんて、できるだろうか。

つないだ手を離さずにいられるだろうか。




「うわっ、茶色!」

乾いた音を立てて、フライパンに無事着地したホットケーキは、私がビビっているうちにしっかりと焦げていた。

「ちょっと着地ずれてもうたなぁ」と父。
「いいやん、大丈夫大丈夫」と母。
「ちょお、火ぃどないしよ、強火?弱火?」と娘。

狭い台所に3人が集まって、ひとつのフライパンをのぞきこんでげらげら笑う。

バナナと炭素が香り立つ台所は、外の雨を物ともしないくらい暖かだ。


「よっ」とかけ声。

スローモーションのような月面宙返り。

何十回見ても、私はやっぱり拍手してしまう。


ホットケーキの裏面は、さっきに輪をかけて焦げていた。むしろ均一に焦げているぶん綺麗にすら見える。

バナナと牛乳とミックスしか入れていないのに何故か香ばしいホットケーキ。
切り分けるのは私の役目だ。


お皿に取り分けて、ヘソを曲げてしまったフォークをつき刺す。
口に広がるのは、酸味と甘みがとろりと溶けあうホットなバナナ。
うーん、絶妙な潰し加減。


大きかったホットケーキは、写真を撮る前に平らげてしまった。
だからこうして日記を書く。
こんな何でもない日曜日を忘れないように。



人生がドライブだとしたら、運転手を交代する時期が来たということだろう。父から私へ。たまにサービスエリアでまた交代したりなんかして。1人じゃ疲れて行けないところまで、何とか走っていく。

独走じゃないんだ。
きっと父は助手席で見ていてくれる。

そしてハンドルさばきへの文句を聞いたり、後部座席の母からチョコの差し入れをもらったりしながら、私は走っていく。


あー、それなら、なんとなく楽しそうだ。

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