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おんなじ星が見えない

赤になったばかりの信号で立ち止まる。
「もう一個手前で待っとけばよかったかな」
「ええやろ、三人おればすぐや、すぐ」
「そうそう、すぐすぐ」
キュウリや大根の入ったエコバッグをぶら下げる父と違い、手ブラな我々は呑気なものだ。

うっすら冷えてくる身体をごまかすように揺れていると、母が「星!」と群青の空を指さした。右側に立つ父も「ほんまや」と見上げる。「一番星、見れたなぁ」と嬉しそうな母に、私は「おぉーぅ……」とあいまいにうなずく。


いや、見えへん。
視力悪いくせにコンタクト嫌いな私には、都会の灯りの中で微かにきらめく一番星なんか見えへんよ。

「わからんの? ほら、あそこよ、あのビルの10階くらいの」
「電気ついてる部屋あるやろ? その斜め下くらいに」

見えるわけがない。老眼の母と、数年前に目の手術でレンズを入れた父。そりゃ遠いところは見えるだろうよ。
一方で私の目はsnow搭載。ソバカスもニキビも自動で消してしまう最新機種。なんなら目鼻口もあやしいくらいのザコ視力。テレビのテロップですら読みづらいのに、星て。

「見え……ン……ンン…?」

見えん。わからん。
しかし父母は口々に星の位置を説明してくれる。二人の指さす先、たぶんあのへん。だが見えん。
こうなれば自己暗示である。あそこに星がある。見えないかもしれないけど、星が、ある。あるぞ。あるんだ。

「あー……あれ、かな」

なんとなく、あるような気がするところを指さす。そうそう!わかった? と嬉しそうな母。うーん、強めの自己暗示のおかげのような気もするけど、ま、いいか。

そうこうしているうちに信号が変わった。ほら、すぐやったやん、と手を引いて渡る。暖かな母の手を、ぎゅっと握る。


ほんとは一緒に同じ星を見たかった。
二人に見えて私だけ見えない星が、少し悔しかった。
「あれかな…?」じゃなくて、「あれや!」と言いたかった。

同時に、「見えない」とは言えないことが、どうしたって苦しい。

綺麗だからこそ、見せてやりたい、見えてほしい。
そんな両親のあたたかな願望を汲んでしまう自分を、受容してやればいいのかどうか、私は決めあぐねている。


「努力すれば良い結果が得られる」っていうのは願望だ。私はその願望を叶えてやれなかった。一年浪人したのに、第一志望に入れなかった。申し訳なさと自分への失望感は、三年経ってもまだ苦い。サンマのはらわたみたいな苦味だ。

私はわたしでなくなっていくのが怖いのだ。

母が薦めてくれた本を棚に積ん読している。面白かった、ここが良かったと読書体験を共有できたらいいのだけど、母の期待する感想に添えないことが怖くて、「また読んでみてね」にあいまいに返事している。

母の中の、読書家な娘のイメージ、思慮深い娘のイメージから違えてしまうのを恐れている。

星空を共有できない自分が、両親の期待に応えられない自分が、露呈してしまうことを恐れている。

そんなみみっちい人間になってしまった。優しい子になりたかったのにな。優しい両親に報いることができるような。



マンションまでの帰り道に、車が停まっていて、助手席に男の子が乗っていた。
「お出かけかな」と母。関西人の私はこう返す。「誘拐やで」
「うん……エッ、誘拐!?」

家でだけ吐くテキトーな嘘。わかりやすく出来の悪い嘘に、母は毎回リアクションをとってくれる。

「うん、あんまパッとせん車種やろ? あぁいうのが誘拐にうってつけやねん。あの子ふっくらしとるから、ええとこの坊やと思われたんちゃうか」
「ほぉん……」

即興の作り話をぺらぺらと披露する。父は両手に荷物をぶら下げて、3歩ほど先を歩いている。
見えない星を綺麗だと、そんな嘘をつくより、作り話のほうがずっと健全でいい。
私のちゃちな嘘なんてどうせバレているのだ。
それならどーんと規模の大きな嘘の話にしてしまおう。

ほんとうはツッコミ待ちなんだけど、大阪人でない母はいつまでたってもツッコんでくれないから、話がむくむくと膨らんでしまうのだ、なんて。


マンションのエレベーターホールにたどり着く。後ろから子どもの声がした。振り返ると、見覚えのある格好の男の子と、その手を引くお迎えの先生。

「預かり保育かい!」
我慢できず小声でツッコんだら、母が笑った。




社会人になるにあたって、コンタクトを買った。
世界がよく見える。ちぎれた雲も、アパートの洗濯物も、看板の文字も。

職場に向かう通勤電車の中で、ふと一年前の書きかけの文章を見つけた。尻切れトンボにオチを付け足しつつ、こうやって締めの言葉を考えている。
見えなかったものが随分見えるようになったなぁ、と感慨深く思いながら。


苦いばかりで苦手だったサンマのはらわたを、好むほどではないが美味しく食べられるようになった。
就職という、ひとまずのゴールに達してから、両親からの期待を怖がるばかりの自分は多少なりを潜めたようだ。
大人になるにつれて、だんだん旨味に変わっていくんだろうね。


大人っていいなぁ。透明な秋の空。冷たい空気がすっと肺を通る。
退勤した私を迎える空は、日に日にこっくりと深い色になっていく。

こうもりの飛び交う夕空に、一番星、二番星、三番星。
嘘も見栄も知らぬ顔で、当たり前に星が光っている。

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